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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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相良義陽_64【島津咆哮8~飛田瀬・羽作瀬の戦い・後編】

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今回、ちょっと苦労したので記事配分が悪くてすいません(´・д・`)
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出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人の方で頑張ります(`・ω・´)キリッ)
赤や他の色文字は管理人の推測です。

突然ですが皆さん、お住まいの自治体発行の「市政だより」とか「○○県民だより」的なものを読まれてますか?
日常に関わることが書かれているので、必要な部分を読む人は少なくないことと思います。
でも公共事業の記録となると、全部を目を通すって仕事じゃないと中々ないって・・・自分だけ?^^;

とにかく平成現代では地名として残っていない飛田瀬・羽作瀬の位置特定するのに、伊佐市の水道関連の公共事業記録のお世話になりました。
てか、PDFで十数ページの中から飛田と羽作も文字を捜すの結構大変だったりしました~(´Д`;) 
(ただし振り仮名がないので、地名として残ってない現在、読み方だけは判らんかった^^;)
飛田瀬(旧花北村)・羽作瀬(旧下牛村)の位置データは、伊佐市菱刈下手!
※村の名前は菱刈史に記載されていた位置データですが、市町村合併の記録の方からもHITしなかったっす(´Д`;) 

瀬とあるので、当然のごとく川内川支流沿いで、おそらく水天神社周辺かな~と。
時期は不明ですが、この水天神社には義弘公が大口城攻めで戦勝祈願をした伝承が残ってます。
菱刈が陣していた羽月堂崎(現:伊佐市大口堂崎)と菱刈下手の川沿い迄の距離は数百mの近さ。

川内川からは幾つか支流が出てるけど、それのどっちが飛田瀬で、どっちが羽作瀬か特定できんかった^^;
たぶんだけど羽月川沿いの方が、羽作瀬なんじゃなかろうか。(羽繋がりと云う単純な発想です^^;)

う~失敗したな~
今回、グーグル・ストリートビューで平成のスッコーーンと見晴らし全開の景色見ちゃってから、戦場のイメージがフリーズしちゃったんです~~~( ̄ω ̄A;アセアセ

もう考えるのやめて『菱刈史』本文に戻ります(`・ω・´)キリッ
えっと~川上サァが怪我しちゃって、その怪我が元で死亡したんだよ~(´;ω;`)ウッってとこからです。
此(この)戦い(=飛田瀬羽作瀬の戦)義弘公は漸く身を以て脱(の)がれた。
でしょうね^^;
200余人で3000人に挑んで勝ってたら、この戦の知名度が島津ファンの間で高いはずですもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

次(つい)で義弘公自ら殿(しんがり)となりて、下牛村羽作瀬を渡られた時に、菱刈軍急に追い迫り、(島津勢の)遠矢下野守、財部傳内、入来筑後守、及び長野仲左衛門等、死力を尽くして防ぎ戦ふた。
先陣で先駆けするだけでなく、殿(しんがり)も務める一軍の将・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

義弘公、軍騎突き入らんとせらるるも菱刈の兵 公を知り、
はぅっ!( Д )  ゚  ゚
殿(しんがり)に義弘公がいるのが、バレた!!
義弘公の兜や甲冑を見覚えている兵がいたんでしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~

(菱刈の)三十余人が群がり来って義弘公を包囲せんとしたので、
公、馬を要地に立て忽(たちま)ち数人を射殺された。

要するに義弘公勢は、退却中ばで菱刈勢に追い付かれて、乱戦になったらしい。
それと念のため、この場合の射殺は、銃じゃなく弓の方だと思います^^
とにかく囲い込まれて押し包まれたら、数で上回る菱刈勢に島津側の体力が尽きてしまう。

伊集院右衛門兵衛尉久治、義弘公の軍利無きを聞き、衆を駆け馬を走らせて自ら先登(せんとう=先陣)として敵に突き入る。
・・・・なんか、この後に続く記述も凄い恰好良く書いてるんだが、だからといって形勢が有利になったわけじゃないらしい。
義弘公を援けに来た、伊集院久治を援ける為に、馬越の軽卒数十人が駆け付けて伊集院久治を助けたそうです。

って、伊集院を助けるのは良いが、本来の救援目的の義弘公は?ヽ(。_゜)ノ ?

これって・・・島津側は兵力の逐次投入してるんだ。
義弘公を助けようとした為とはいえ、かなりグダグダな戦況だなぁ。

(退却戦の)軍功が最も衆に抜きんでていた・・として名前があげられているのが、有川雅樂助貞真(島津家老・伊勢貞昌の父)と伊東右衛門尉の二名です。

菱刈軍、大いに狼狽して退き、義弘公 曽木城に入った
貴久公、義久公は軍を出し、半途にして【敵の敗れたるを聞き】、軍を返した。
下線と【 】は自分です。
ええ、さっぱり状況が判りませんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
時間の経過が書かれていないので、島津貴久と義久が出陣したタイミングが判らない。
てか義弘公は不利だって退却して、その最中に乱戦になったのに「敵が敗れた」って表現になるのが謎^^;
貴久と義久本軍の出撃情報をキャッチした菱刈勢が(大いに狼狽して)退却したって言うなら判るけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
とにかく、詳細不明ながら義弘公が敢て少数で挑んでいるために「釣り野伏せ」を仕掛けようとしたって説があるそうです。
考えると、またフリーズするから、これ以上は触れるのやめよう~(-ω-;)

退却戦のさなか、追い付いて来た菱刈勢と交戦した島津勢のうち、先述した長野仲左衛門は戦死したらしい。
菱刈史編者は、羽作瀬の上の丘にある通称、五本松に長野殿墓とある石碑が建っており、それが長野仲左衛門の墓じゃないか~と推測を書いている。
伊佐市菱刈下手字五本松・・・地目が田になってるため地図上の住居表示がされておらず、位置は特定できませんでした。
大正期の羽月村長が、墓に香花を手向けていたそうで、それが単に同姓の所縁なのか、長野仲左衛門の子孫だからなのかまでは書かれていませんでした。

相良側史料、求麻外史には豊永大蔵が尾撃(びげき=追い討ち)して、長野仲左衛門を討ったとあるそうです。
って、菱刈史編者が書いているんで、同じく近代デジタルライブラリで求麻外史を見たんだが、どこに書いてるのか探せなかった^^;

違う話だと、大口城からは城番の相良家臣・赤池長任が、別府、内田らを出撃させて、島津義弘を撃退したってことになってて、負傷した義弘公を逃がすために、島津家老の川上左近将監久朗が身代わりになったともある。
(※菱刈史だと別府と内田は菱刈の武将として記述されています。)
更に違う話だと、義弘公の弟・歳久も救援に駆け付けたとあるが、とにかく島津勢が負けたことには違いない。

思うに、大口(現在の伊佐市)は最終的には島津領となり鹿児島県に編入されているために、地元伝承が負けたはずの島津贔屓になってるらしいのがヒシヒシ伝わりまして、それで「その時、何があったか」って客観的な事実が非常に判り辛いんです^^;

菱刈史では、戦況に直接関係ない、負けてるはずの島津勢を褒める言葉がポンポンでて【敵が敗れた】で記述を〆てます。
退却戦で敵の追撃を逃れるの成功したのは良いとしても、元々仕掛けた戦に勝ったわけじゃないんだから「敵が敗れた」ことにはならないじゃないですか^^;
大口という土地にとって島津氏は、鹿児島県の「うちの殿さま」だから、どうしても【島津が負けた】とストレートに書きづらかったのでしょう。
どっかの大本営発表のように、勝ったのか負けたのか読み取り辛い玉虫色の記述にしてるところが、逆に面白いです(*´pq`)プププ
ということで、いろいろ突っ込みどころがある戦いが終わったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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