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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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相良義陽_63【島津咆哮7~飛田瀬・羽作瀬の戦い・中編】

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出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人の方で頑張ります(`・ω・´)キリッ)
赤や他の色文字は管理人の推測です

えっと~この記事の推敲をしてたのは先週の事でして。
リアルが忙しくてジックリ落ち着いて考えられなかったのもあるんだけど、それ以前にスランプ煮詰まりでした(´・д・`)
島津の菱刈退治・・・掃討戦における局地戦の一つに過ぎないのだから、拘らずに飛ばせば済むんだが(-ω-;)ウーン
つまり義弘公が何で僅か200余人で3000の菱刈勢に挑んだのか、イメージできなくて煮詰まってたんです。

そもそも島津側の記録では、この戦いは大口城攻略の一つとして書かれていました。
だから200余人で城攻め?っと、その時から疑問に感じてはいたんです。

菱刈史によって、城攻めではなく野外決戦だったのが判ったのは良いが、判ったら判ったで新たな謎が増えました。
戦場になった飛田瀬・羽作瀬は、少なくとも平成の現代では遮蔽物の殆どない見晴らしの良い場所なんです。
囲まれたらアウトで殲滅されます。
だから義弘公も形勢不利となったと見るや、すぐ退却戦に切り替えてるんです。
ただし、戦国当時なら川原に葦とかあって、隠れながら近づけたのかもしれません。
それであれば奇襲のために、あえて少数で挑むの「有り」でしょう。
いずれにせよ、兵力差がありすぎるので、やはり囲まれてしまったらヤバい事に変わりはないと思います。

菱刈史には戦いの戦闘開始から終わりまで、時間の経過が書かれていません。

菱刈史によると、実は貴久公と義久公も出陣した・・・とあるので、もしかしたら「釣り野伏せ(囮作戦)」だったかもしれません。
義久公の反対を押し切って出陣した義弘公が突出しすぎて、釣り野伏せが期待したほどの効果を得られなかった・・・というなら有り得ます。
となると、これは致命的・・・とまでは行かないけれど、ちょっと・・・かなり失敗。

江戸期命名:作戦コードネーム《釣り野伏せ》は、囮作戦だけに同じ相手には2度と使えないからです。
(※一次史料には「釣り野伏せ」って言葉は出てこない)
島津側の人的損耗(老中:川上左近将監久朗の死亡)を考えると、ちょっとどころじゃない失敗・・・il||li _| ̄|○ il||l

自分が菱刈勢が遊撃部隊と推測してたのは、この戦いで菱刈勢3000が野外に陣していた記述を読んだからです。
繰り返しますが大口城には相良の在番兵が1000名、常時詰めています。
菱刈勢は自身の勢力を削って大口城の首尾に回す必要はない。
丸々「戦力」として、勝手知ったる地元を自由に動き回れるんです。

菱刈の戦意を砕くには「彼らの寄る辺である大口城」を攻略するのが一番手っ取り早い。
ところが大口攻略するには、ジモティワールドをウロウロしてる菱刈の残党(というには、かなり纏まった勢力)が・・・・超邪魔。
菱刈勢を少しでも削らなきゃならない。
でもって、義弘公には日向・真幸院の守りがあるから、あんまり大隅にばかり居続ける事は出来ない。
義弘公に焦りがあったのかもしれません。

飛田瀬、羽作瀬、共に平成の現代では地名として残ってはいません。
瀬とあるので、川は蛇行部分ではなく直線です。
早瀬か荒瀬か・・・いずれにしても、場所によっては川底が見えるくらいの深さだった所もあったでしょう。

雨の日か晴れていたか、天気すら記録されていない戦いの中で、川は両軍の争いで血に染まった。
なんとなく、背景らしきものが見えたところで、それは・またの話 by^-^sio

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