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相良義陽_61【島津咆哮6~飛田瀬・羽作瀬の戦い・前編】

今回、プチスランプになるほど苦労した~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(※記事内緑文字は菱刈史より引用、句読点、振り仮名は管理人の方で頑張ります(`・ω・´)キリッ)
赤や他の色文字は管理人の推測です。

え~~っと、ここまでの粗筋~
菱刈討伐のために1万5千の本軍で一気に菱刈エリアを制圧した島津氏でしたが、肝心の菱刈勢は大口城に逃げ込んで、相良氏の保護下に入った。
菱刈は相良から更に援兵300もらって、島津に対し反撃に出始める。
制圧した元菱刈の城・市山城が度々ジモティ菱刈に襲撃を受けるため、島津は親指武蔵の異名をとる猛将:新納忠元を市山城へ配したのだった。

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イメージ 1
永禄十一(1568)年戊辰正月二十日 大口の菱刈軍三千計(ばか)り、羽月堂崎(現:伊佐市大口堂崎)に陣して居た。
やっぱ菱刈勢は地の利を生かした遊撃部隊じゃないかな~。
3000は結構な数ですから、八つの城を捨てて大口に結集した菱刈勢でしょう。
大口城自体は、元々相良氏が1000名の在番衆(球磨衆と八代衆の交代制)が詰めてたので、菱刈勢は守備のために兵力を残存しておく必要がないんです。

(島津)義弘公、兵二百余人を率いて馬越(まごし)城を出で之を■たれたが、義久公之を制せられたが聞き入れられぬ、
■が読み取れなかったんですが、前後の文から察するに義弘公ってば、兵200で3000の菱刈に挑んだらしい^^;
長男の義久が止めたのに言う事を聞かない猛将次男です^^;

菱刈氏の将、別府安芸守、岩崎六郎兵衛、内田傳右衛門、迅速に衆を■ひて挑み戦ふので、義弘公の軍 隊伍整わず、
そりゃそうだ。
3000VS200で、単純にぶつかるなんて無茶すぎる^^;
なんか作戦でもあるのかな~と見てるんだけど、そうでもなさそうな・・・ (6 ̄ω ̄)ポリポリ

且(か)つ其の衆寡の勢いを察し、菱刈軍 勝ちに乗じて急に追い迫った。

なんか・・・展開がヤバくね? アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

義弘公、其の利なきを見て、且つ戦い、且つ退くを、菱刈勢の追撃■怠であった。
ぁう~~、大正時代の旧漢字と印刷の荒さで判読不能文字が・・・ぢぐじょぅ~~
とにかく義弘公は不利と見て(初めから無理だったと思うんだが)退却し始めたみたいです。
いきなり逃げると逆にヤバいんです、兵が恐怖にかられてパニクるから。
だから戦いつつ退くんだけど、どうも菱刈の追撃が緩慢?緩かったらしい。

川上左近将監久朗(かわかみ さこんしょうげん ひさあき)飛田瀬に還して安芸守と戦う
義弘公、弓を取って別府(=安芸守)を射殺さる。

あぁっ!川上久朗~~'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`

久朗、勇を振って自ら数人を斬り、身に十七創を受け馬越に帰り、傷癒えずして二月三日に死んだ。

ぐぁあああああああああああああああああああああ!!!
勿体ねぇえええええええええええ!!!
こ・・・こんな処で死なせちゃうなんて~~~~~~~~・゜・(PД`q。)・゜・ヒーン

川上左近将監久朗・・・若干17歳で島津家老&谷山地頭に抜擢された知勇兼備の武将、享年32歳の若さで死亡。(´;ω;`)ウッ
彼の墓は島津氏の菩提寺である福昌寺 (鹿児島市)に建てられているのだが、それは・またの話 by^-^sio

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