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肥前を調べるに当たり要リサーチなのが、少弐氏の本貫地である筑前。
更に、もう一つが筑後です。
筑後は龍造寺隆信が登場した肥前のように一国を統一する、いわゆる「英雄」は出ませんでした。
代わりに筑後十五城と呼称された有力国衆がいました。
筑後守護職は他国人である豊後大友氏。
筑後国衆は大友氏の支配を嫌い、たびたび謀反を起こし大友氏を悩ませましたが、大友氏の力の前に屈し、その支配体制にガッツリ組み込まれます。
筑後には大友から配された守護代がおり、大友直参衆がいました。
(「高一揆衆」または「一揆合衆」、別名で「二四頭」あるいは「三三頭」)
てことで、筑後史は物凄く複雑です^^;
資料を読んでたんですが、ぶっちゃけ読んだだけじゃサッパリ判らん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てことで資料の要点を自分なりにまとめて記録したいと思いますので、宜しくお願い致しますm(__)m
参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
※参照部分は緑文字部分にて表記します
蒲池氏は二つに分かれるのですが、柳川城の下蒲池家は龍造寺に滅ぼされたために伝来の文書は失われました。
今日「蒲池文書」と呼ばれて残ったのは、山下城の上蒲池氏の子孫が所持していたものだそうです。
滅びた家ってノンクレームだからアレコレ書きやすい。
だから柳川の蒲池に関して記した「書物だけ」は数多いわけです^^;
下蒲池氏に関する参考文献というのが、江戸時代に成立した「蒲池物語」と「宇都宮蒲池系図」をもとに記述されています。
「宇都宮蒲池系図」は「筑後将士軍談全五十六巻」の中にあります。
筆者は久留米藩の学者だった矢野一貞。
彼は筑後各地を綿密に調べ、岩戸山古墳と磐井の研究には欠くことのできない基礎文献とも言われています。
城跡の現地取材も豆で171の城を書いてて、筑後史の研究に大いに貢献してるのですが、宇都宮蒲池系図は・・・^^;
だって、筑後蒲池氏は宇都宮からの系譜じゃないからして、前提そのものが崩れてるんです( ̄ω ̄A;アセアセ
矢野一貞は幕末期の学者なので、おそらく混同するような底本が当時あったんでしょう。
たぶん柳川の蒲池氏を知ってる人の間で知名度があるのは「蒲池物語」の方だと思います。
蒲池物語は享保7(1722)に著され、作者は蒲池豊庵(かまちほうあん)。
蒲池宗寿(蒲池鎮並娘と大友家臣との子)の子孫で・・・ズバリ言うと庶流。
蒲池豊庵は先祖の事を記すに当たり史料がない部分は、当時流行してた「通俗史書」「軍記物」を参考にしたそうな( ゚д゚)ンマッ!!
ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!←蒲池物語をあてにしてた
そのため蒲池物語の記述は史実と合わない点が散見される
ということで、蒲池氏の【史料】としては上記二つは使えない・・・il||li _| ̄|○ il||l
↑蒲池物語(意訳)をダウンロードしてた
一方、上蒲池さんですが江戸期は黒田家や細川家に仕えて生き残ってて、子孫の一人が松田聖子なわけだが、
こちらが残した蒲池家譜が他のと比べると精度が高い^^
ということで、参照文献では上蒲池氏の蒲池家譜と同家に伝わる古文書、他の史料などを併用して編纂されました。
そのため一般に流布されている蒲池氏とは、かなり違い、
情報量の多さから来る既存知識の書き換え更新作業が、管理人脳内のみでやろうとしたらパンク状態でお手上げ。
時間はかかるけど、記事という形にして頭に入れていきたいと思います^^
ちなみに同様の理由で田尻氏もやります~~それは・またの話 by^-^sio
※アロマフラッシュは南洲様からお借りしましたm(__)m