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父を本家との戦で失い、嫁ぎ先に従ったら、今度は夫と舅も失った。
かくして新納家庶流の姫だった美女・常盤は、完全に伊作家の人間となり、細腕繁盛記よろしく伊作家を切り盛りをする。
美貌もさることながら、相当頭の切れる女傑だったのは想像に難くない。
そんな彼女の悩みは、我が子で伊作の大事な跡取りである菊三郎(=忠良の幼名)の養育だった。
子供は親の思い通りにならないとは言うが、菊三郎少年は思い通りにならなさすぎた。
とにかくクソガキ・・・ゲフゴホグホ
もとい、寺の柱に縛り付けられて折檻されるほど、元気な菊三郎少年の養育を任されたのが新納忠澄。
新納忠澄は、常盤からみて実の甥です。
新納是久には常盤の他に男子(つまり常盤の兄弟)がいまして、その息子の一人が忠澄なんです。
第二次飫肥役のあと、飫肥には島津分家の豊州家が入り、新納本家は元鞘で志布志に戻りました。
常盤の兄弟は、志布志に留まり新納本家の家臣として仕えていたんです。
おそらく・・・なんですが、志布志城の姫だった常盤から見れば、実家(是久系)が本家の家臣格に落ちた事に対し、忸怩(じくじ)たる想いがあったのでしょう(´・д・`)
実家の再興もあって、実甥の一人を伊作へ呼び寄せたわけです。
後の島津忠良の活躍を鑑みると、新納忠澄の養育は成功したようですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、この常盤の実甥・新納忠澄の孫こそ・・・
親指武蔵・・・ではなくて新納旅庵(にいろ りょあん)です^^/
同じ新納姓でも、旅庵は幼少期から三十代まで僧侶だったので、知名度が低いかも。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康との間で折衝にあたった事で知られています。
常盤が呼び寄せた実甥・新納忠澄には兄(嫡男)がいて、それが新納忠祐。
新納忠祐は身軽に志布志を離れらない立場でした。
というのは、新納本家から正室を迎えてたから。
あぁ~なんだか段々ややこしくなってきた~~~つまり同族婚なんで島津アルアルのプチカオス系譜なのね^^;
常盤の実甥・新納忠祐の妻は新納本家6代目の娘で、常盤の従妹を妻にしてたんです。
新納忠祐から見ると妻は従妹叔母になります。
新納本家と分家は、敵味方で戦った過去があるので、一族融和のための婚姻だと思います。
あぁクラクラした・・・島津家臣として高名な新納氏を、これまで本格的に出してなかったのは、
日向戦後史も絡んで結構複雑で、この通り書庫が別に必要になる分量になるからなんです。
薩州家VS伊作家のころ、是久系当主は忠祐の子・祐久の代で、やっぱり新納本家に仕えてました。
で前回記事にしたように、薩州家サイドの島津分家たち+肝付連合にフルボッコにあって新納本家は一家離散で没落します。
常盤の実家で分家当主の新納祐久は、嫡男を伴い田布施(たぶせ・南さつま市)へと逃れました。
で、島津忠良の養育係・新納忠澄の伝手で伊作家に仕えます。
その時に新納祐久が伴っていた嫡男こそ、親指武蔵の異名を持つ新納忠元、その人です。
橘朝臣幸麿さま作画・晩年の新納忠元
新納忠元が初めて忠良にお目見えしたのは、天文(1538年)で13歳だったそうです。
以降、伊作島津、ひいては島津宗家の貴久、義久、義弘と仕えます。
ということで、新納忠元トリビア?は、新納本家6代目の曾孫ってことです^^/
で、前述した新納旅庵とは又従兄弟の関係になります^^b
ちなみに新納本家も、後に島津家臣として江戸期に続きます。
で、新納忠元が大隅~~~ってイメージになるのは、猛将・新納忠元の大口城攻略からが契機となるのだが、それは・またの話 by^-^sio
次回からは菱刈史出典『大隅DE新納』(^ -)---☆Wink