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4月、大友親繁、幕府の命で豊前に攻め入り大内勢を戦う
4月28日、文明に改元
5月、少弐政資、大内勢を破り大宰府を奪回「歴代鎮西志」(or7月)
・橘氏、伊万里氏、武雄氏、藤津大村氏が自衛の為、攻守同盟を結ぶ
・少弐政資、筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五州太守と仰がれる
※対馬に亡命していたが、宗貞国が足利義政より御教書をもらい少弐御家再興を果たし、少弐政資は大宰府を安堵される
※少弐新体制~執権:宗盛見、宗貞房
6月15日、千葉教胤が藤津・大村家親を攻撃するために浜松へ着陣
・祇園会に千葉勢が乱入し儀式を妨げる
・すると俄かに晴天曇り暗闇になると、雷鳴&暴風雨となった
・千葉勢「神罰?神雷?Σ(´Д`;)」とパニックになり、慌てて船で帰陣しようとしたが暴風雨で全て水没
・千葉教胤、以下家臣100余人が全員水死する
・渋川教直~朝鮮と歳遣船を約す
・千葉胤朝(8代目次男)千葉家11代目当主となる
※亡き教胤に子供がおらず千葉家嫡流断絶のピンチとなった
※悲観した千葉一族が入道しメンタル諸行無常で諸国行脚に出てしまい、たちどろこに千葉氏衰退
※困った千葉家中が庶流より胤朝(大内義隆の紐付)を当主に迎えた
※千葉氏新体制~執権:岩部常楽、中村胤明
7月、応仁の乱・東軍、大友親繁勢が肥前東部に侵攻「佐賀市史」
7月、岩部常楽が佐嘉府中(大和町)に赴いている間に、中村胤明が千葉胤朝に岩部を讒言する
・千葉胤朝は、この讒言を信じて岩部常楽を殺そうとする
・岩部は神文を書いて主君に申し開きをするのだが、胤朝は信じなかった
・(困&怒)岩部は、大宰府長官・少弐政資に訴え出る
・少弐政資が千葉胤朝を宥めて、両者は一時的に和解した
9月9日、千葉胤朝~家臣・仁戸田近江守を大将に、府中の岩部へ兵を差し向ける
・この年、岩部に年貢を免除された百姓・山伏ら一万人が、恩返しにと岩部へ合力
・岩部勢の多さにビックリ仁戸田は、一戦も及ばず国府(牛頭山城下)へ逃げ帰る
・岩部常楽~再び大宰府へ訴える
・中村胤明~岩部に合力した百姓らを懐柔したため、岩部は追放された
(「 」に明記していない肥前の動きについては、基本として「北肥戦誌」が出典です)
<北九州エントリ---肥後、筑後、肥前、筑前、豊前、豊後>
【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
さがの歴史・文化お宝帳
戦国島津女系図
しいまんづ雑記旧録
千葉一族HP
武家家伝
城郭放浪記
天下統一期年譜
【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」「筑前国風土記拾遺」
肥前関連「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「佐賀市史、県史」「武雄市史」「三瀬村史」「背振村史」
「龍造寺家文書」「横岳文書」「鶴田家文書」「深堀家文書」「鍋島家文書」
筑後関連「田尻家文書」「柳川市史(通史2、通史4)」
自分で所蔵しているのが青文字部分です。
それ以外に関しては監修様の御厚意で提供を受けておりますので、逆を言えば自分では原典未確認です。
また史料入手に関して、自力で入手困難なものはサポートを受けました。
ご協力頂いた皆様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m