基礎データ
長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家
本姓:橘氏、諱の通字:公
渋江氏本貫地、武雄市橘町大字永島、本城:潮見城、関連神社:潮見神社(武雄市橘町大字永島)
渋江氏本貫地、武雄市橘町大字永島、本城:潮見城、関連神社:潮見神社(武雄市橘町大字永島)
総領家渋江氏と次男家牛島氏が争っている間に、シッカリ者の三男家中村氏が勢力拡大。
やがて中村氏は、今を時めく小城郡・肥前千葉氏7代目当主・千葉胤鎮に仕えました。
やがて中村氏は、今を時めく小城郡・肥前千葉氏7代目当主・千葉胤鎮に仕えました。
年代でいうと1400年代で、どっぷり室町期( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに地元の総領家の頭越しに、守護大名とか有力家に仕える事は無問題。
室町期~戦国期にかけての主君と家臣は、江戸期の家臣と違って「被官(ひかん)」として仕えてました。
被官は家臣のような縛りがないため、地元主君の他に幕府の御家人等になるのも自由だったんです。
(そもそも実力がある国人領主でないと、どこかと両属する事自体無理ですけどね^^)
ちなみに地元の総領家の頭越しに、守護大名とか有力家に仕える事は無問題。
室町期~戦国期にかけての主君と家臣は、江戸期の家臣と違って「被官(ひかん)」として仕えてました。
被官は家臣のような縛りがないため、地元主君の他に幕府の御家人等になるのも自由だったんです。
(そもそも実力がある国人領主でないと、どこかと両属する事自体無理ですけどね^^)
で、ここからが謎の人事なんですが、他家からの新参者でありながら中村氏は千葉家老に抜擢されたんです
それが橘姓渋江系中村氏の最盛期当主・中村胤信で、元の諱は公廉
肥前千葉氏はカテゴリ作って連載してたんですが、渋江氏を調べる前だったので、中村胤信の事は完全に盲点でした il||li _| ̄|○ il||l譜代家臣ゴボウ抜き人事に、チラリンと腐女子的発想が脳裏を過ぎったけど即没。
千葉胤鎮は千葉氏最盛期を築いた当主。断じて暗君ではありません。
そもそも衆道的情実人事なら、任命の時点で譜代家臣が黙ってないはずです。
千葉胤鎮は千葉氏最盛期を築いた当主。断じて暗君ではありません。
そもそも衆道的情実人事なら、任命の時点で譜代家臣が黙ってないはずです。
どうも肥前千葉氏(7代目胤鎮に限らず)にとって、渋江系中村氏の存在が(胤信=元廉に限らず)何らかの利用価値があったようです。
勝手に推測するなら、肥前千葉氏は藤津の方へ勢力を伸ばそうとしてました(結局、統治にまでは至らず)
その関連で、中村氏の情報やコネクションが便利だったのかな~~~と。
それだけにしては、かなりの依怙贔屓なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー てことで謎は謎です。
勝手に推測するなら、肥前千葉氏は藤津の方へ勢力を伸ばそうとしてました(結局、統治にまでは至らず)
その関連で、中村氏の情報やコネクションが便利だったのかな~~~と。
それだけにしては、かなりの依怙贔屓なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー てことで謎は謎です。
で、新参ながら重用されてた中村胤信(公廉)が、大内に内通し千葉胤鎮をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出した!
時の大内当主は、大内持世
大内の後ろ盾で中村胤信(公廉)は、7代目胤鎮の弟・胤紹を肥前千葉氏当主に据えます
少弐と大内の争いの中で、家督に介入され千葉氏自体の不幸(嫡男なしで当主死亡)が重なり、衰退していく肥前千葉氏。最初に介入したのは大内氏で、その発端を作ったのが渋江系中村氏なんです
西国のドン・大内氏の力で、室町幕府が家督簒奪者であるはずの胤紹当主の正統性を認めました。
そのため肥前千葉家は、兄・胤鎮系と弟・胤紹系の二つの嫡流が出来ちゃった ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
そのため肥前千葉家は、兄・胤鎮系と弟・胤紹系の二つの嫡流が出来ちゃった ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
7代目胤鎮に幸いしたのは、嘉吉の乱(1441年)で時の将軍・義教と大内持世が死んだ事です。
千葉胤鎮は、新参者・中村胤信に猛反発した千葉氏譜代衆を集め、リベンジに成功し胤紹と嫡男と中村は討たれました。
(室町幕府が認めた胤紹は正式に8代目としてカウントされてます)
千葉胤鎮は、新参者・中村胤信に猛反発した千葉氏譜代衆を集め、リベンジに成功し胤紹と嫡男と中村は討たれました。
(室町幕府が認めた胤紹は正式に8代目としてカウントされてます)
胤鎮の死後、9代目元胤の代で、謀反者・中村胤信(公廉)の息子が再び家宰(家老)として復活してます。
その間、僅か10数年しか経過してないので、肥前千葉氏と中村氏の間に、何かしらの利害関係があったんじゃないでしょうか。
その間、僅か10数年しか経過してないので、肥前千葉氏と中村氏の間に、何かしらの利害関係があったんじゃないでしょうか。
さんざん記事にしたんで詳細省いて、肥前千葉が西と東に別れた時。
元々大内に内通した黒歴史がある中村氏は、大内の後ろ盾がある東千葉に仕えました。
西と東、両千葉氏の争いの中で、一時は渋江家を凌いでいた中村家も衰微したようです。
元々大内に内通した黒歴史がある中村氏は、大内の後ろ盾がある東千葉に仕えました。
西と東、両千葉氏の争いの中で、一時は渋江家を凌いでいた中村家も衰微したようです。
没落してた渋江氏も一時は本貫地を取り戻したのですが、やっぱり衰退。
前回記事にしたように、中村氏は武雄龍造寺(鍋島)に仕えます。所領は当時家中で最大だったとか。
それが災いしたのか、江戸期に入って中村氏は、主家である武雄龍造寺からの独立を目論み失敗。
一族離散という羽目になり武家としては残らなかったそうです。
前回記事にしたように、中村氏は武雄龍造寺(鍋島)に仕えます。所領は当時家中で最大だったとか。
それが災いしたのか、江戸期に入って中村氏は、主家である武雄龍造寺からの独立を目論み失敗。
一族離散という羽目になり武家としては残らなかったそうです。
さて、渋江一族のなかで現在、もっとも知名度があるのは次男家牛島氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio