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東国御家人だった肥前千葉氏が、肥前で勢力を得た要因の一つは、肥前に守護職が在国してなかったのが大きい。
「亭主元気で留守がいい」ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
更に一つ加えるなら、肥前千葉氏が九州探題職・今川了俊の「遺髪」を継いだことだ。
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今川了俊の後姿^^;画像はウィキペディアより
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(リンクフリーだと、おケツしかなかった件,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
九州は北朝より南朝が優勢だったために、形勢逆転のテコ入れとして稀代の名将と謳われた今川了俊が投入された。
ちなみに徳川家康の正室・築山殿は、この今川了俊の血を引く姫様です^^/
中世史、中世史といっても「範囲が広ぅござんす」なので、どうしても好き嫌い、得手不得手が出てくる^^;
自分も「室町期は好きだけど南北朝期は苦手」なため、今川了俊のことも肥前に絡む部分しか調べてないという手抜きしてます^^;
(もう、年号が2パターンある時点でダメぽ (´;ω;`)ウッ)
で、その今川了俊の拠点の一つ・・・と言われているのが肥前だそうな__φ(.. ) フムフム、メモメモ
佐賀県史料集成1巻(河上神社文書、実相院文書)が入手できなかったんで史料の確認が・・・・
ちょ、マジすか~古書店で在庫みっけ========
ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`ヽ(*´∀`)ノゎーィ♪'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
ゲフゴホ・・・失礼!取り乱しました。
とにかく今川了俊が川上社の持つ国衙(政庁)機能に目を付け、肥前支配のツールとして組み入れたらしいんです。
了俊は弟の今川仲秋を肥前守護代に任じました。
この今川仲秋が肥前今川氏(後の持永氏)の祖です。
2代目で兄で養父の病死により、初代の次男で2代目兄の養子だった・・・
・・・・・・・・・??・・・・誰だったっけ?(._+ )☆\(-.-メ)シッカリセイ!
すいません。史料入荷(予約)の慶びで、色々吹き飛んでしまった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
え~家督を継ぎ5代目となった胤泰ですが、下総と肥前を行ったり来たりしてた肥前千葉当主の中で本格的に土着するのは、この胤泰からになります。
それで南北朝の争乱では、どうも初めは南朝だったようです。
2代目兄は下総で戦い北朝でしたが、何と言っても九州は南朝が優勢でしたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
ただ、このころの肥前千葉氏の記録が少ないのでハッキリしてません。
で、5代目胤泰は途中で南朝から北朝へ席替えします^^/
おそらく今川了俊が九州へ派遣されてからで、胤泰は従軍してたものと推測されています。
とにかく記録が全くない(or見つかってない)ために、胤泰が何時から北朝へチェンジして、どの戦場で従軍してたのか不明なんです。
胤泰が了俊に従軍してたとか、遺髪を継いだとか、推測されているのは、
千葉胤泰の娘が、了俊の弟にして肥前守護代・今川仲秋に嫁ぎ男子を儲けているから。
さらに川上社大宮司職を肥前千葉氏がゲットしたのは、5代目胤泰からなんです。
このままだったら、肥前千葉氏は肥前今川氏の配下(執権とか?)だったのかなぁ~かも?
運命が変化するのは、学生時代(or修学旅行)で「金閣寺とSETで記憶される3代目・足利義満」により、今川了俊が解任されたからです。
つまるところ優秀すぎた今川了俊は「このまま九州で自由にさせておけない・・」と足利義満に警戒されちゃったわけ^^b
この足利義満は「南北朝合一」後に、功績の大きすぎる守護大名などを上手く排除してる節があり、大内義弘の「応永の乱」は義満の陰謀説があります。
了俊とともに、弟の仲秋も駿河へと帰っちゃいます^^;
仲秋の妻だった胤泰娘が駿河へ同行したかは不明ですが、息子が肥前に残ってるところみると、生母である胤泰娘も肥前に残ったんじゃないでしょうか。
叔父さんとお父さんが駿河に帰っちゃった肥前今川家にとって、縁者は肥前千葉家だけです。
仲睦まじく協力関係にあった肥前今川氏と肥前千葉氏。
それが西国大名のドン・大内家の陰謀により両家は敵同士となるのですが、それは・またの話 by^-^sio
※ここで、いったん連載ストップ~
河上神社文書、実相院文書(一部)の史料確認後に再開しますので、宜しくお願いしますm(__)m