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【相良義陽65_起請文(前編)】

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はぁ~い^^御無沙汰!
相良家文書が、本編の年代に追い付い分から、ボチボチと順次再開します^^
(出典:菱刈史、本藩人物誌)

島津の菱刈退治、初手は一気呵成に七城抜いて菱刈は一族郎党共に領地を捨てて逃げる・・・
と絶好調だった。
ところが菱刈勢が逃げた先というのは、相良氏が城番常駐している大口城。

菱刈勢は、大口城を拠点に相良の支援を受けて島津への抵抗を止めない。
島津義弘公が攻めるも手痛い敗北を喫する。
こなってくると後詰(相良の援兵)があり、ジモティ菱刈の方が優勢になってしまい、島津は不毛な菱刈モグラたたき状態に^^;
形勢を逆転すべく島津貴久は親指武蔵の異名をとる新納忠元を市山城へと投入した。
永禄11年(1568年)2月28日における菱刈&相良勢との闘いで、新納は数カ所負傷するも見事勝利を治める。
(書庫:日向&大隅_新納氏~http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/folder/549833.html

Image may be NSFW.
Clik here to view.
人物・新納忠元
 橘朝臣幸麿さま作画_晩年の新納忠元イメージ画像

だが、相良の後ろ盾がある菱刈は基本強気で、島津へのリベンジ・抵抗を止めない^^;
同年の3月23日、菱刈勢は曾木城を攻めた。
(さすがに新納が城番の市山城を攻めるのは、自分らの損害も大きいから懲りたみたい^^;)

曽木城-----伊佐市大口曽木
城番-------宮原筑前守景種、佐多常陸介久政(※城番の出典元は菱刈史)

菱刈史では宮原と佐多の両名を城番としているんですが、
ウィキペディア(大元は本藩人物誌)の方だと佐多常陸介久政は違う城の番手で、あくまで佐多は援兵になってます。
ちなみに佐多氏は島津の庶家の一つで知覧城で知られてます。
佐多久政は日新斎の孫・・・つまり貴久公姪が正室^^/

この曾木城も元々は菱刈の城でして、島津が大軍で菱刈討伐した時に菱刈が捨てた城の一つです。
従って曾木城周囲の地形も、城の防備や弱点も菱刈は知り尽くしてます。

以下「菱刈史」より引用((  )内はシオ補足+相変わらず句読点がないんで、こっちで振ります^^;)
三月廿三日(菱刈)隆秋、大軍を率いて之(曾木城)を囲んだ時に相良(は)、市来(入来)院、祁答院、東郷氏等、兵を遣わして之(菱刈)を援けた。

まず菱刈史で市来院とあるのは入来院の誤記でしょう。渋谷一族ですから^^;
永禄11年、渋谷一族は相良氏へ起請文を出していました。
それが相良家文書522_東郷重綱起請文です。

一従前々相良渋谷御入魂之儀、弥々以猶不可有疎遠事、
一今度依御弓箭出来、別而一同申合事、
一自他方之間、雖有如何様之凶徒野心、任誓紙、不可有相違事、
一渋谷中一味同心之上、面々雖不及起請文、爲後日之、支證文申合事、
一一同申談之上、於嶋津殿少(何かサイン)不可隋幕下事、

赤文字部分だけ意訳
一 今度の(島津との)戦においては、別して一同が申し合わせ(盟約)する事
一 一同申し談(盟約)の上、嶋津殿の幕下に従うべからず事、

東郷の出した起請文は、起請には珍しく年度のみで月日の記載がありません。
これは東郷が一族を代表して起請したからのようです。
(※4行目意訳:一族個別には起請しないけど、後日の証に證文はとるとある)
で、おそらくですが起請したのは4月より前に推定されるので、まさしく起請した盟約通りに渋谷一族は、相良と共に菱刈へ援兵を出していたのです。

この東郷重綱は、どうも菱刈家から入った養子のようなんです。
(ハッキリ断定できる史料が不足の為、推測です^^;)
で、この東郷重綱は、どうも相良氏から正室(16代目の娘)を迎えているようなんです。
(国衆としての渋谷一族が没落した為に、断定できるだけの史料が不足してます^^;)

とまぁ、起請をして一族縁戚勢揃いで攻撃した曾木城なのだが、
結果として島津勢が守りきり落とすことが出来なかったヽ(。_゜)ノ アレ?

渋谷一族代表・東郷重綱の起請に対し、相良義陽が回答をしたらしいのだが、それは・またの話 by^-^sio

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