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【5-2_中興の祖・中編】通史①肥前千葉氏

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中興ということは、前提として一度は衰退しなきゃならない。
雲行きが怪しくなるのは7代目・胤鎮の嫡男・俊胤が12歳で病死したことから始まる。
時に永享2年(1430)年8月の事で、12歳という若年で諱があるってことは、元服して間もない時期だったんじゃないだろうか。

父である7代目胤鎮は31歳・・・この時点で亡くなった俊胤以外に男子がいなかった ( ̄ω ̄A;アセアセ
嫡男は残念だが、当主胤鎮は男盛り~次があるさ~と思いきや、その後も男子が授かる気配が無い( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ

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家系図・肥前千葉系図・決定

( ̄ko ̄)<7代目胤鎮には弟がいたんでつ・・・家系図にある胤紹でつ

胤鎮の弟・胤紹は生年が不明なので、何歳頃だったか解らない。
その胤紹には既に長男・政胤が生まれていた・・・( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ( ̄ω ̄A;アセアセ 

このまま胤鎮様に男子が生まれなければ、家督は弟君・胤紹様?・・・ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)マダハヤクネ?

永享7年(1435)、兄で当主の胤鎮に男子がないなか、弟・胤紹のとこにはコウノトリ来々で次男・胤朝が誕生

このまま胤鎮様に男子(以下略)、胤紹様長男・政胤様を養子に?・・・ヒソヒソ(*´・д・)(・д・`*)家督アルアルナノネ

永享9年(1437)、男子キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
胤鎮38歳にして待望の男子・元胤誕生~

胤鎮弟・胤紹・・・・il||li _| ̄|○ il||l

オレンジ文字部分は、シオのお遊び想像~~(*´pq`)クスッ
なんだけど、似たような雰囲気があって不思議ではない。
というのも、この次男誕生の年に肥前千葉氏では御家騒動が起きるからです。

肥前千葉家、御家騒動のバックにいたのが、西国のドン・大内氏(=^・ω・^=)v ブイ
時の大内当主は大内持世。
応永の乱(1399年)で一時衰退した大内氏だったのだが、わずか30年弱で再び盛り返すところは流石の底力!
永享5年(1433)には室町幕府から少弐追悼・・・もとい追討令をゲットし、その年の9月29日には少弐満貞が筑前秋月にて討死してます。

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家紋・大内
(ロン様作成_大内家紋ロゴ)大内の家紋(大内花菱)はお洒落だなぁ~と思う^^

永享9年(1437)9月、肥前千葉の家老・中村胤宣が大内持世に内通し謀反を起こす。
この中村胤宣は、胤の字があるように千葉氏からの偏諱です。
で、元々の諱が公廉でして、橘姓渋江系中村氏の最盛期当主。
外様ながら肥前千葉氏に家老として重用された中村胤宣は、分家でありながら本家である渋江氏を凌ぐ勢いだった。
(中村の本家・渋江氏は、肥前有馬や肥前後藤氏の勢力拡大とともに衰退していった)
参照過去記事『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』中編

中村胤宣が、譜代家臣ゴボウ抜き人事で家老になった理由の詳細は判りません。
どうも肥前千葉氏にとって、中村氏が何らかの利用価値があったからのようです。
想像するなら、西肥前・藤津方面へ勢力拡大するのに、本貫地が近い中村一族のコネクションや情報が欲しかったんじゃないでしょうか。

大内持世に内通した中村胤宣は、肥前千葉⑦胤鎮の弟・胤紹を神輿として担ぎ出した。
肥前千葉氏が下総千葉氏との争い以外の理由で家督分裂する始まりが、この大内持世の介入からだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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