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【5_中興の祖・前編】通史①肥前千葉氏

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さて、ネタ仕込みチャージ完了~再開します(`・ω・´)キリッ
時代は南北朝から室町だよん~

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家系図・肥前千葉系図・決定
パソで系図を作るあたり、まだ余裕があった過去史料~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

下総(千葉県)と肥前(佐賀県)を戦のために行ったり来たりしてた肥前千葉当主が、ドッカリ肥前に腰を据えるのは5代目胤泰からです。
川上社大宮司職になったのも胤泰の代から。
ちなみに、胤泰自身は千葉県・下総生まれの下総育ち(^ -)---☆Wink

1363年(北朝元号パス)胤泰の嫡男・胤基が誕生。
胤基の青春は南北朝の争乱一色^^;
明徳元年(1390年)に、胤基は父から家督を譲られ6代目となります。
武家の常ですが、息子が家督を継いでも実権は父・胤泰ね^^b
胤泰の没年は系図や過去帳等で3パターンあり確定してませんが、84歳という長寿だったそうです。

九州探題・今川了俊が南朝討伐に出陣した時は、⑥胤基も従軍~肥前千葉家は小城領を安堵。
この前後には胤基の姉(or妹)は、今川了俊の弟・仲秋と結婚し、肥前千葉と肥前今川家は縁戚となりました。

明徳3年(1392)閏10月、明徳の和約が結ばれ、南朝は実質降伏。
ぶっちゃけた話、南朝側は室町3代将軍・義満の手腕に上手くダマかされ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

南北朝の争いを治めた義満が次にしたのは「功績によって力を付け過ぎた者の排除」です
非情ですが、戦が無くなり不要になった功臣の排除は、政権長期安定には必須。
今川了俊が九州探題を解任されたように、中国地方で義満のターゲットになったのが大内義弘でした。

応永6年(1399)10月13日、大内義弘が挙兵し「応永の乱」が起きる
大内義弘の挙兵動機はイマイチ不明で「義満の挑発に乗った」とも言われています。
同年12月21日に大内義弘は討死し、そのあと義満の期待通りに大内では家督争いが起きて、一時衰退。

大内は内部固めと同時に少弐や大友と筑前を巡るガチンコで忙しく、肥前までは直接には手が回らない状態でした。
大内家が少弐を叩き潰すまでの30数年間=(イコール)肥前が大内の介入を受けなかった期間でもあります。

同年、胤基に次男が誕生しました。
嫡男が早世したので次男が嫡子となる
この胤基次男こそ「肥前千葉家、中興の祖」と言われた7代目・胤鎮、その人です(=^・ω・^=)v ブイ

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家紋・肥前千葉
 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

応永11年(1404)4月12日、肥前千葉⑥胤基は、肥前にちょっかい出してきた少弐⑩貞頼を撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!します。
肥前千葉家臣(名前難しくてパス)が少弐に寝返ったのが発端でして、
千葉胤基は九州探題・渋川満頼と今川国秋(胤基甥)と連合し「佐賀郡川上の戦い」で勝利を治めたんです。

応永24年(1417)10月24日、6代目胤基が54歳で死亡。
大内は静かだし、少弐は撃退したし、肥前千葉家にとり一番平和な時期でした。
ちなみに島津は奥州家と総州家が宗家の座を巡って内輪もめ中~^^;

応永26年(1419)、7代目胤鎮に嫡男・俊胤が生まれる。
7代目となった若き当主胤鎮は、二十歳で嫡男を授かり千葉家の前途は明るいものに見えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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