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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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参照2・秀吉研究の最前線(日本史史料研究会編)

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読書の秋ですので、ただいま【知識の一夜城】なぅ__φ(.. ) メモメモ
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===第2部_誰もが知っている秀吉が命じた政策===
===太閤検地は秀吉の革新的な政策だったのか、鈴木将典===

えっとまず年貢についてなんですが、一昔以上前と近年の研究はスタンスが大きく変化してます。
昔は領主が個々の百姓から搾取する・・・という視点から、現在は「村(郷村)」が注目されています。
というのは年貢は村請で、納税に関しては村が責任を負ってたからなんです。
肥前も同じく村請(^ -)---☆Wink

豊臣政権の太閤検地の基本原則は四つ
1・縦横を一間=6尺3寸(1.9m)※現在の一間は1.82m
2・面積を一反=10畝=300歩=5間×60間
3・京枡を基準とする
4・田畑に上中下の等級をつけ、上田の斗代を一石五斗とする
※斗代=一反あたりの年貢賦課基準値

土地面積の単位は北近江で秀吉が支配する前の中世から用いられていたものです。
てことで、石田三成とか増田長盛とか近江出身家臣が基本的な部分を作ったと推測できます。

実施方法は大別すると3つ
A型、秀吉が蔵入地(直轄地)などに奉行を派遣して行った。
B型、秀吉子飼いの大名が、A型で行った。
C型、秀吉に従属した大名が領地内で独自に行った。

更に細かく分類
A型a、秀吉の直轄地で実施された検地
A型b、佐竹、島津、上杉、里見など大名領国で、豊臣政権奉行が行った検地
太閤検地に括るのはB型まで
C型方式は徳川、前田、毛利などで太閤検地からは除外し、大名独自の検地として評価されている

インフルエンザの型みたい・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

ゲフゴホ、このあと色々事例を紹介してるんだが、とりあずパス(←おぃ)
一方で、豊臣期に実施された検地全体を、広義の太閤検地とする見方もあるそうです。

ぶっちゃけた話、秀吉の太閤検地は実態とは離れており、各地に派遣した「奉行による政治的判断」で決まってます。
もしくは従来の大名領国基準を太閤検地の基準に対比計算したものです。

検地結果で朝鮮の役の軍役や諸役分担分も決定するので、従来のを対比計算してもらうほうが遥かにマシ。
文禄3~4年に行われた島津の検地(実施者:石田三成配下)では、石高を2・7倍増にされた(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
天正19提出「御前帳(指出検地=自己申告)」+出米(でまい=増加)
家臣の領地を圧縮し大名の直轄地を確保させる数字マジックでして、これで島津氏の軍役を増やしてるんです。

梅北一揆が起きるはずですな ( ゚Д゚)y─┛~~

ちなみに仙石秀久は村の自己申告を太閤検地の石高に対比計算ですって( ̄ko ̄)
戸次川で島津に大敗退してる仙石が、赦されるだけじゃなく、以後も何気に優遇されてるのが不思議なんだよなぁ^^;
参照3に続く~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

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