これは史料的な検証してないので、それでカテゴリも「お遊び」書庫にしてます。
前フリの
【神が先で仏が後だった神仏習合を、徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している】
と自分が感じるようになったのは割と最近のことで、肥前中世史の研究を始めてからなんです。
川上社と別当寺である実相院。
日本古来の習俗に倣うのなら、表は川上社で裏が実相院でなければならない。
現に南北朝時代の今川了俊は川上社を支配ネットワークに利用したし、
室町時代の肥前千葉氏は、川上社の大宮司職をゲットしてた。
ところが、どうも江戸時代になると川上社より実相院の方が隆盛だったようなんです。
なぜ表裏ひっくり返ったんだろう・・・|?・謎・疑問・?|・ ̄)じぃーじぃーーー・・・が、きっかけだった。
初めは肥前のみの現象かと思ったんですけど、明治の廃仏毀釈運動の詳細を別サイトで見て「肥前だけじゃない」
【神が先で仏が後だった神仏習合を、徳川家康&江戸幕府が、仏が先で神が後の神仏習合にひっくり返している】という考察に至った。
順を追って話そう。
具体的な中身は未だ定説・通説が確定していないのだが、
とにかく織田信長も豊臣秀吉も、帝を超える神になろうとして失敗?挫折した。
そもそも神を否定するほどの大革命は、日本の習俗上においてアンビリバボー。
日本民族の氏族・血族ルーツたる帝を否定すれば、彼等自身の氏族(存在理由)も否定することになるから、そこは否定できないんです。
え~~と、つまり信長も秀吉も「俺は新世界(新政権)の神になる(`・ω・´)キリッ」ですな( ゚Д゚)y─┛~~
で、徳川家康は「ワシは東照神君だぎゃ~」なんだが、過去二人の失敗も知ってる。
氏族ルーツとして帝を超えられない以上、神としての家康も帝を超える事は絶対無い。
ていうか、そもそも日本における統治権は潜在的に帝が有しており、時の権力者は帝から政治を執る事を委託されたに過ぎない。
(帝が直接政治を行う事を親政と呼び、親政する帝を「治天(ちてん)の君」と呼びます^-^)
これは平成の現代も同じだよ~~ん♪ヽ(*´∀`)ノ
政権をひっくり返そうとする者が、帝を奪い担ぎ出そうとするのは【日本の統治権は帝が有している】からです。
帝という存在は、導火線の先に火がついたままの地雷のようなもの。
為政者にとって、それが自分らを何時か脅かすと判っていても処理できない尊貴な存在。
で、無理をしない家康&江戸幕府は、神仏習合してる仏の方。
仏教側を支配機構に組み込む事で、習合してる神社側の権威を抑えようとした
・・・じゃないかな~って考察です^^/
寺請制度により全ての領民は、何がしかの寺院に所属します。
文字通り「揺りかごから墓場まで」、あらゆる階層の日本人が寺と関わりを持つことになったんです。
神社側に特別な規制をかけずとも、時の流れが【仏教が表で神社が裏の神仏習合】へと変質させていきます。
或いは神仏習合の内情変質は、家康や幕府が意図したものでなく、260年に亘る江戸幕府支配からくる副産物だったのかもしれません。
同時に江戸幕府は宗教界に布教と宗論を禁じました。
仏教側を支配しやすくするために、宗教界を活性・活発化させる行為(=布教)に規制をかけたんです。
ん~~布教と言うとニュアンスが違うかな?(近世史料は調べてない^^;)
改宗を禁じたが正解かも。寺請制度で所属寺院が先祖代々固定しちゃうからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
昔の法論・宗論対決は厳格でして、敗れた側は相手側の宗派に改宗するってルールだったんですわ。
もっとも宗論対決は全面禁止ではなく、寺社奉行のOKと立ち合いがあれば出来ました。
でも、そこは、ほら。お上ですから。簡単には許可は出さない。
教義に厳格な法華宗はメゲずに申請して了解もらい、宗論・破折にハッスルしておりました(*´m`)
で、【祭祀を祀る事=政(まつりごと)】の話です。
ファーストインパクト~仏教と合体!神仏習合さ!
セカンドインパクト~~寺請制度だ!神仏は習合のままだけとね!
そしてサードインパクトが明治維新・・・幕府によって保護されてきた仏教界に廃仏毀釈という使徒が襲来する
逃げちゃダメだ・・・逃げちゃダメだ・・・逃げちゃおっかなぁ~~③に続く(`・ω・´)キリッ