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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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考察:古代から現代③~宗教と政治~知識の引き出し整理なぅ

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肥前中世史を研究前は宗教史にハマってたシオの脳内整理棚卸です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

古来より日本においては【祭祀を祀る事=政(まつりごと)】で《祭政一致》だった。
「祭=祖霊を祀る」「政=まつりごと」^^b
※「祭政一致」の体制の下では、政治的指導者=イコール宗教的指導者。

で、宗教史の流れを簡単にまとめると大きく三つに分類できる。
☆ファーストインパクト~仏教と合体!神仏習合さ!
☆セカンドインパクト~~寺請制度だ!神仏は習合のままだけとね!
☆サードインパクトが明治維新。幕府の宗教政策によって保護されてきた仏教界に廃仏毀釈という使徒が襲来する。

初めは神仏分離だった・・・
実は神仏分離自体は地域限定で江戸時代もあった。
岡山藩や水戸藩、淀藩、会津藩等の儒教が興隆した藩を中心で、出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われている。
明治政府は「王政復古」を旗印に、神道国教化の為に日本古来の姿である「祭政一致」に戻すべく、まずは習合状態の神仏を分離する【神仏分離令・1868年】を発した。
 ●神社に奉仕していた僧侶には還俗
 ●神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁止

明治政府には仏教界を弾圧する意図はなかったのだが、結果として行き過ぎた神仏分離が廃仏毀釈運動へと波及した。
寺宝は二束三文で売り飛ばされ、石仏や地蔵の顔や頭部は破壊さたり削られたりした。
廃寺になったり神塔を破壊されたりと、タイフーンが二つも三つも襲来したかのような凄まじさ。

生き残るために寺号を捨てて、神号・・・つまり神社になった元寺院もある。
鹿児島県で島津歳久を祭神とする平松神社は、その典型例でして元々は曹洞宗の心岳寺でした。
吹き荒れた廃仏毀釈運動の為に、神仏習合時代の記録は非常に調べづらくなってます。

各神社HP、各寺院HP。
それぞれ歴史コーナーはあれど江戸期以前に、どの寺院が習合してた別当寺なのかデータ公開してるところは殆どありません。
だから自分も、肥前国総鎮守にして一宮である川上社の別当寺が実相院であることを突き止めるまで、実は半年以上かかった^^;
(現在の呼称が与土日女神社で、記録上の呼称が河上社や川上社で、これらが同じ神社だって気づくのにも苦労を・・・)

・・・・・・・・てか、これって歴史好きの佐賀ブロガーに聞けば一発だったんじゃね?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でも地元の人には当たり前すぎて、他県人がピンと来ない事が不思議だから、なかなか話が噛み合わない部分はあるんだよなぁ ( ̄ω ̄A;アセアセ

更に明治政府は神道国教化の一環として、
「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと(明治5)」と太政官布告。
それまで僧尼令(757年)に定められた僧侶の肉食妻帯の禁を解いた。

この僧侶も結婚していいよ~~~~
の前に明治政府は明治4年1月、社寺領土知令を発した。
御朱印や黒印によって保障されていた社寺領は、現在の境内地を除いて、ことごとく返上すべし!
さらに御朱印境内地も必要部分を除いて没収!

くりかえすが明治政府は神道国教化を目指してはいたけど、仏教弾圧までは考えていない。
が、あらゆる施策を実行する上に置いて、初期明治政府はあまりにもボンビー過ぎた。・゜・(PД`q。)・゜・

この社領を上知令(あげちくれぃ~じゃなくて「あげちれい」ね^^b)は、施行段階では仏教界への経済DVとなったのは言うまでもないのだが、それは・またの話 by^-^sio


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