Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 910

【犬塚ふぁいぶ!~二つの犬塚・肥前編1】


肥前の犬塚ふぁいぶ・・・(._+ )☆\(-.-メ)息子が5人!!
東犬塚)崎村城主、長男・家直⇒鑑直⇒鎮直⇒家広(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^

西犬塚)蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略

直鳥)直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略
名前に犬とあると里見八犬士的妄想したくなるが、筑後にある某ワンコ伝説と犬塚家は無関係です。
ザッと系図見ると、基本としての通字は「家」みたいですね。

肥前犬塚家は筑後バージョンで説明したように、元々は筑後の国人・蒲池氏の庶流です。
ちなみに蒲池氏は「藤原北家宇都宮氏流」
三瀦郡犬塚に棲んでいた事から犬塚姓を称しました。

年代不明ながら犬塚氏は本貫地を離れ、肥前佐嘉郡川副に移住し、明応年間に同じく肥前神埼郡に移住した。
個人的な推測では「渋川VS少弐+大友」の争いに巻き込まれ、本貫地がカオスになった為の移転と思われます。
神埼に移転したのは、犬塚氏が少弐配下だったからだと思います。

で、犬塚家には5人の男子があり、そのうちの三人が城持ち主で、それぞれ東犬塚・西犬塚・直鳥犬塚・・合わせて「三犬塚氏」と呼ばれていました。
総領家は当然、嫡男系統である東犬塚です(=^・ω・^=)v ブイ

永禄3年(1560)北肥戦誌より抜粋

犬塚尚重が隆信により、領地・蒲田江から追われる


自分が犬塚氏を調べなきゃ~~と感じたのは、北肥戦誌にある簡素な一文が原因です。
前後がサッパリワカラン・・・というより「隆信が追い出した」に違和感があったんです。

というのも実は犬塚氏では、東(総領家)と西(次男家)で骨肉の争いが起きてました。
おそらく総領家の座を巡る争いだと思います。
その頃、既に少弐氏は滅び犬塚一族は龍造寺配下となってました。

つまり龍造寺隆信は犬塚氏の争いを治める立場にあったわけです。
北肥戦誌の一文だけだと、龍造寺隆信が悪巧みしたみたいだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことでジックリ行きましょ~~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

Viewing all articles
Browse latest Browse all 910

Trending Articles