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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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不死鳥の寺その2・・・秀吉の政権補完計画

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いまさらですが、記事にある「★クリック」って何の為なのでしょうか?^^;
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ここまで来ると法難になるんじゃないかしら^^;
文禄4年(1595)年11月、秀吉は突如として、三井寺に「闕所(けっしょ)」の命を下す。

闕所には二つの意味があります。
一、罰を受けて没収された主不在の土地や城のこと
一、罪を犯した罰として領地・城などを没収すること

三井寺の場合は青色にした後者のほう。
堂塔は破壊され、三井寺金堂が延暦寺に移築されて西塔釈迦堂にビフォーアフター( ゚д゚)ンマッ!!

秀吉が三井寺をヾ(*`Д´)ノケシカラン!!と怒った理由はコレという決め手がなく、よくわからないのが実情。
当時は文禄の役があり、天下人となった秀吉が暴君化してたと言われている時期。

もっとも、秀吉が英雄の晩年にありがちな自己肥大化評価も、江戸期に前政権批判補正がかかってる可能性もゼロではないのが悩ましい^^;
自分は、秀吉が暴君化による狂気的な気まぐれで三井寺を破却したのではない、と推測してます。
「三井寺の破却は秀吉の宗教政策の一環である」というのがシオ推論。

理由として、
堂塔(どうとう=つまり住居と修行や仏事のための建物)は破壊されたものの、金堂は元本家(みたいな)延暦寺に移築されることで、形を変えて残していること。
没収した寺領を他のものに与えていない。

他のもの・・・たとえば安国寺恵瓊とか・・・ね。
この三井寺への仕打ちは、あくまでも【一時的な措置】で秀吉自身は三井寺そのものを完全に潰すつもりはなかったように思う。

一時的な証拠に、三井寺関わる尊像の全て&三井寺の僧侶達も咎めなしで、道澄(1544~1608)に託されてます。

道澄(どうちょう)は、かつて聖護院門主として三井寺の長吏職(=TOP)を勤めた人。
三井寺だけでなく、熊野三山検校、大僧正、准三后を歴任したVIP僧。
※熊野三山検校---熊野三山を統括した名誉職的な宗教管理者。
※大僧正(だいそうじょう)---僧の最高位
※准三后(じゅさんごう)---朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇・待遇を与えられた者、その称号

家紋・豊臣
 
(この家紋ロゴの肖像権・著作権は作成者のロン様です)

秀吉は、この道澄を重用していました。
(※ちなみに家康が重用していたのは、関白二条昭実の猶子にして、日蓮宗の江戸・池上本門寺貫主に招請された日惺(にっせい))
(※宗派のTOPは各宗教で呼称が違い、法華・日蓮宗は貫主(かんず)、三井寺なら長吏(ちょうり))

なぜなら道澄は摂関家である近衛家の御曹司。
秀吉が関白になるために猶子となった近衛前久の実弟。
兄・前久だけでなく、実弟の道澄も政治外交力に秀でた能力の持ち主でした。
兄の公家関係からくる人脈と弟の僧侶・仏教界からくる人脈・・・あぅ~CMじゃないけどダブルなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

三井寺関連のHPですと、秀吉クラッシャーされた三井寺再建は「道澄の尽力が大きい」という記述が大半を占めますが、
そもそも道澄の管轄下に三井寺を入れることこそが秀吉の目的だったんじゃないでしょうか。

南北朝のころは幕府(後醍醐天皇)軍を撃破し、信長に焼き討ちされるほどの勢力(=軍事力)を持っていた延暦寺山門衆。
その延暦寺山門衆は、天正12(1584)年に秀吉から焼失した伽藍復興を許可され、軍事力を手放し完全に秀吉支配下となります。

残るは延暦寺から分派した三井寺・寺門衆です。
再び延暦寺と揉めることのないように、三井寺・寺門衆から「も」牙を折り爪を切って首に鈴をつける処置が必要です。
それと予防接種に♀ワンコは避妊、♂ワンコは去s・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)アボガドバナナ!

延暦寺と三井寺の処置へのタイムログは、まぁ元気すぎるほうと そうでないほうの違いと言えばソレまでなんですが、
三井寺クラッシュは、秀吉の新大仏殿建立が大体完成(9月)した年なんです。

そして、三井寺には秀吉の国家的仏教行事に関する「あるモノ」があったのだが、それは またの話^-^

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