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秀吉の新大仏殿が完成した年に、道澄は照高院を開基して、それまでの職から隠居モード。
日本の場合、隠居のほうが儀礼典礼公式行事から開放されて動きやすいって言うのが、上皇院の院政からありました。
三井寺クラッシュ⇒道澄預かりは、まさに道澄が「身軽」になってからのこと。
更に秀吉は新大仏殿の仏教行事に、道澄を重職につけています。
(重職の内容がワカンナカッタよーんil||li _| ̄|○ il||l)
参照5・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像
にて紹介しましたが、秀吉は新大仏殿行事に因み【一切経(全ての経典)】を奉納しています。
奉納したのは「宋版」である
「宋版」でなければならない理由があり、それは先例という歴史的正当性があった。
先例とは鎌倉の北条泰時で、泰時を先例とした足利尊氏
逆を言うと「天下人、あるいは政権を担う人物の奉納する一切経は【宋版】という認識があった」ことになります。
画像は南洲さまより提供
現在ある三井寺_一切経蔵(重文)は、後に慶長7年(1602年)毛利輝元により山口より移築されたものです。
ちなみに収めされた一切経は高麗版で宋版ではないらしい(実物未確認なんで伝聞^^;)
でもでも、過去に宋版を奉納した面々(北条泰時、足利尊氏、豊臣秀吉)を思うと、関が原以降の毛利が宋版を納める度胸はないと思う^^;
実はクラッシュされた三井寺には、足利尊氏が奉納した【宋版一切経】が保管されていたんです( ゚д゚)ンマッ!!
クラッシュのうち本尊関係は道澄が預かりましたが、「足利尊氏が奉納した宋版一切経」がどうなったか判りませんでした。
でも、あれば毛利輝元が改めて寄進・奉納する必要はないはずなので・・・おそらく・・・(。-`ω-)ンー
ちなみに秀吉自身は中尊寺にある「宋版・一切経」を没収というか接収というか、奉納しちゃってるから中尊寺には戻ってないっぽい。
平泉の世界遺産には、「一切経が納められていた経蔵」が指定されてます。
天下人である秀吉は、過去の先例には倣うけど、奉納する以上は過去に奉納済の一切経を再利用するわけにいかない。
大仏殿は おニューですもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
鎌倉期はいざしらず、室町幕府が奉納した一切経が残ってちゃ不味いじゃないですか。
足利義昭を京都から追放キーーック☆ヽ(#゚Д゚)ノ┌┛Σ(ノ´Д`)ノしたのは織田信長だけど、
鞆(とも)で未練たらしくお手紙外交してた義昭を諦めさせたのは秀吉ですもん。
あれほど暴れた比叡山延暦寺が赦されたのに、忘れた頃に三井寺がクラッシュされたのは足利尊氏の一切経があったからじゃないか?
少なくとも理由の一つで、焼失しないまでも道澄に預けて世間に出さないのが目的だったのではないか?
秀吉が三井寺の闕所を解いたのは慶長3(1598)年。秀吉の死の前日。
秀吉は死後に神に成る予定だったので、後生の触りを恐れたのかもしれません。
秀吉の死後、真っ先に再建されたのが、三井寺_金堂(国宝)
再建したのは、ねね様・・・北政所です「亭主の後生のため、内助の功だぎゃ~~」
ねね様。。。自腹だったんですか?( ̄ko ̄)オシエテ
さて、三井寺クラッシュの背景が何となく見えたような気がしてきたろことで、
新大仏殿という秀吉主催の国家規模の仏教行事には、更に目的があったと思うのだが、それは またの話^-^