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方向性(九州の中世史)は同じなのですが、根が飽きっぽいので興味の対象は転々としてます^^;
こっちはガチの史料なんですが・・・編者で序を書かれ論考トップバッターの斎藤先生のが難しくて挫折。
自分の城郭知識が浅いんもので(。-`ω-)ンー
土持氏とか参照してる史料に興味が移って、肝心の論考が脳に浸透しないil||li _| ̄|○ il||l
ということで、少しでもトッカカリあるところから攻め?ます(`・ω・´)キリッ
論考:高橋典幸---南北朝・室町期九州の城郭---『山田聖栄自記』より
自分は趣味の島津萌えですが、研究してるのは肥前中世史なので実は島津の史料的な知識は少ないんです。
監修様にオンブ抱っこ( *´艸`) いつもすいません。
島津家文書も図書館にあるにはあるが、さすがに島津。専門家でないと解読が手ごわい(´;ω;`)ウッ
ちなみに古書で鹿児島県史料が5諭吉で目玉ポーーン ゜ ゜( ∀ )ぅ!?
でことで無理や背伸びしないで、理解できるところからユルユルと・・・(。-`ω-)ンー
山田聖栄とは、島津から派生した一族で、山田氏は戦国期も島津氏家臣として活躍してます。
で、この方・山田聖栄は、室町中期で島津氏の家督争い・宗家地位争奪戦で頂点制覇した奥州家・島津久豊に仕えてました。
彼の自記は15世紀(1400年代)の史料として、スペック高い一次史料です。
写本もあるんですが、写本間のブレも少ない良史料だとか。
飛び飛びになるかもですが、気になる方は図書館にリクエスト^^/
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(島津家紋ロゴ:著作権は作成者のロン様です)
1)東福寺城から清水城へ
室町期の総領家(奥州家)の拠点となったのが東福寺城と清水城
どちらも鹿児島市清水町にあったそうなので、御近所キャッスルです。
元々は出水の山門院や、川内市の薩摩国衙周辺が拠点。
てことは薩摩の国衙は川内市だったのか__φ(.. ) メモメモ
※国衙(こくが)=日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画
※国衙がある土地を国府(こくふ)と呼びます。そのエリアの中央政庁になるので国府=首都
※国衙には公田(くでん)があって、そこからの租税を徴収して政庁機能を維持してました。
河川の側だからなぁ・・・気候や地形や水利整備とかに恵まれれば、物成りに豊かな土地になります。
で、上記の土地から鹿児島市に進出したのが南北朝争乱期。
初めは東福寺城で奥州家(総領家)の祖・氏久が入ってました。
薩摩半島および大隅進出の拠点だったんです。
そこから大姶良城(鹿屋市)、志布志城(志布志市)へと拠点を転々としてたそうです。
だから鹿児島・大姶良・志布志の三カ所を本拠地としてた。
そのため氏久の長男・元久は大姶良城で生まれ、次男・久豊は鹿児島脇で生まれたとか。
脇?
えっと・・・「脇」は場所を指すみたいです|参照文献|・ ̄)じぃー
で、奥州家ルーツ氏久は東福寺城が手狭だったんで、「脇」まで拡張しようとして果たせないまま死亡。
後を継いだ長男・元久が清水城を作った。
それ以来、清水城は島津総領家の本拠地として機能します。
清水城とは、鹿児島城で別名:鶴丸城のことです^-^
ここから先が、城の呼称とかになるんで、ちょっと脳に浸透するまで時間くれ~~
ひとまず締めます^^/