参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」
≪カンタン田尻系図≫
田尻恒種---種久---治種---親種
≪カンタン大友当主≫
大友政親---義右---親治(政親の弟)---義長---義鑑---義鎮(宗麟)
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延徳2(1490)9月2日、大友義右は恒種の跡目として種久の相続を許した。
(田尻家文書:4号)
この種久の代で大友家で内紛が起きました。
明応3(1494)5月、筑前守護代の田原親宗が、当主・義右に背いて兵を挙げたんです。
手勢2000で府内を襲いました。
さすが田原氏・大友家分家筆頭の実力ですな ( ゚Д゚)y─┛~~
これは返り討ちに遭い、田原親宗は討ち取られました。
が、明応5(1496)5月に大友当主・義右が病死(父・政親による毒殺説あり)
直後に大友の家督問題に介入した大内勢により、大友政親が討たれる。
政親と義右は、義右に毒殺説がでるほど不仲でした。
不和の原因は将軍家の家督問題で、大友親子は それぞれ違う将軍を押しメンしてたんです。
政親、義右と親子共に死亡したために、政親の弟・親治(ちかはる)が跡目を継ぎました。
親治は四男で肥後瑞光寺の僧だったんですが、還俗して当主になった。
この親治がキリシタン大名・大友宗麟の・・・・の・・・・曽祖父です(; ・`д・´)←一瞬漢字をド忘れした人
つまり政親、義右親子の不和がなければ、宗麟には当主の座は回ってなかったって事です^^b
で、田尻家では大友親治の時に、種久から治種(ちかたね)へと跡目相続します。
治の一文字から判るように、治種の諱は大友親治からの偏諱(へんき)です。
田尻家が大友家から偏諱を受けたのは、このときが初めてのこと。
跡目相続後も田尻種久は健在だったそうなので、種久&治種親子による二頭体制で田尻家を動かしていたようです。
跡目で偏諱を受けるということは、健在だった父・種久と大友親治の間で関係強化が為されたということになります。
文亀から永正年間にかけて、大友の筑後支配が大きく進展した時期でした。
それに「肥後の錯乱」が大きく関わります。
筑後を半分こ支配で揉めた肥後菊池氏と豊後大友氏。
筑後一国支配をゲッツしたのは大友氏でしたが、文亀元年に再び菊池氏と対立したのです。
弱体化しつつある菊池氏に対して、食い込もうとする大友氏。
両者の争いに筑後国衆が巻き込まれていくのだが、それは またの話^-^