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【大隅_蒲生(かもう)氏(戦国編_前編)】

前後編で終わるかシラン~~史料眺めつつなので配分は行き当たりばったり:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
室町編から半年間があきましたが、区切りよく戦国編に入ります(。-_-。)vブイッ♪
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一応おさらい~大隅国・蒲生氏は、GAMOUの方ではなく・・・・KAMOUと読みます^^
出典:本藩人物誌

奥州家が総領家となる覇業を支え、戦国期も良き下位者として仕えて来た大隅・蒲生(かもう)氏。
それが怪しくなって「国賊認定」にまでなるのは戦国期の顛末からです。

まず戦国期に入って15代目・蒲生充清には女子しかいませんでした。
なんか、ここら辺りで もうヤバイ臭いです。^^;

そこで種子島武蔵守忠時の次男を婿養子に迎え16代目当主としたのが、蒲生越前守茂清。
ちなみに島津義久の継室となる円信院は、12代目の曾孫にあたります。
つまり、この婿養子のあたりは戦国初期~中期の話なわけです。

で、この婿養子の代で島津氏に敵対することになります。
実のところ≪蒲生氏が【何故、島津に謀反したか?】は、明瞭ではない≫んです。

国賊伝や本藩人物誌は事実を淡々と記してますが、根っこの原因らしきものは書いていません。
緩い想像としては
「蒲生さんちは島津より先に大隅国蒲生に土着してたから、
分家筋からの当主である伊作の日新斎、貴久親子に従うのが嫌だったのかなぁ~」って程度^^;

あとキナ臭い要素としては、婿養子迎えた後に男子が生まれちゃったのよ~( ̄ko ̄)
奥さん聞いて聞いて~~な、よくある話よネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
家督争いにはならなかったけど、婿養子がいなければ当主だったはずの15代目の子・清親。
彼は貴久に敵対した婿養子には与しないで、宗家・貴久サイドについたから、蒲生一族は分裂してたようです。

Image may be NSFW.
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人物・島津貴久
(島津貴久イメージ画像:著作権・作成者は幸麿さまです)

とにかく婿養子・茂清は、毎度毎度マメに謀反してる渋谷ファミリアや菱刈と徒党を組んで、貴久公に敵対したそうな___φ(.. ) メモメモ
一度【守護職の権威】と言う枷が緩んでしまった薩摩・大隅・日向で、また元に嵌め直すのは容易なことではない。
「自由」を知ってしまった国衆にゃんこは、飼い猫から野に放たれた虎の如く逞しく成長してたんです。

三後(薩摩・大隅・日向)が下克上した肥前と違うのは、守護職・島津氏の実力による再統一という点に尽きます。
守護職から戦国大名化し更に近世大名へとスライドした、極めて稀な成功例です。(←個人的萌え要素)
戦闘民族シーマンズDNA改造が成功s・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)アホ

結果として弘治3(1557)年4月18日に、茂清の子で17代目・範清の時に降参したんだけど、彼ってば大人しくしてないで祁答院に出奔しちゃった( ゚д゚)ンマッ!!
んで、祁答院から更に入来院を頼ったため、蒲生氏の嫡流(家督的な意味)は断絶してしまう。

島津貴久は蒲生15代目の血を引く孫・・・つまり宗家サイドの蒲生清親の子・清綱に蒲生の家督を継ぐように命じました。
ぶっちゃけ、血が繋がってるのはコッチなんだから、家督の流れが元鞘に戻ったとも言える。

頼られた入来院氏も蒲生範清を無碍(むげ)には出来ず、隈之城の内、青木門を与えて食客にしました。
ここらあたりは島津宗家も「寝た子起こさず」で、大人しい分には放置してたんでしょう。
蒲生範清は、そこで没しました。

やらかしたのは蒲生範清の子・為清です。
彼は領地を取り戻そうと、島津義久の頭越しに秀吉に接触しようとしたのだが、それは またの話^-^

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