そういえば、新年初の歴史記事シリーズですな ( ゚Д゚)y─┛~~
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出典:本藩人物誌(国賊伝含む)
※赤文字はシオ補足
島津貴久・義久親子に背き入来院の食客で亡くなった父・蒲生範清(17代目)
順当というか祖父(婿養子・茂清)・父(範清)が宗家に謀反しなければ18代目は為清だった。
が、敗れて実質御家断絶、蒲生の家督は15代目の孫が貴久の命で継いだので、蒲生為清の処遇は宙ぶらりんだったことになる。
時の流れに身を任せていれば、入来院の家臣か、上手く島津家臣に滑り込めたかも?かもう?
朝鮮の陣、庄内の乱、関が原、大坂の陣(夏冬)と軍功のチャンスはあったから。
未来を見通せたとしても結果は同じになったかもしれない。
蒲生為清の目指している御家再興は、島津家臣としてのソレでなく、自立した国衆としての御家再興だったからです。
本藩人物誌では、十郎三郎為清 天正十五年 太閤西征ノ時 殿下ノヲ願フとある。
具体的に、どう昵懇になろうとしたのか伝手はあったのかとか、詳細は書いていない。
が、その計画は島津義久にバレた。
龍伯(島津義久)公怒テ 於国分脇坂誅為清
意訳すると、『激怒した島津義久は国分脇坂(霧島市国分)という土地で始末させた。』です。
国分には城があって、国分衆は義久公忠義の者たちでした。
本藩人物誌・国賊伝の記述ですと自害ヲ賜フとあるので、おそらく詰腹(つめばら)切らされたんでしょう。
詰腹(つめばら)は、強制的に自害させることなんですけど、切腹だから武士としてはマシな死に方なんです。
斬首(ざんしゅ)は、ガチ罪人扱いで その多くは武士身分も剥奪されます。
想像ですが「昵懇情報リーク~成敗」の流れは、秀吉の意向も絡んでたかも。
領内でのトラブルは島津にとって立場上不味いので、やったのもあるでしょう。
また、朝鮮の陣(明国制覇)を目論んでた秀吉は、島津が分裂して島津の軍役(出兵する兵力)が減るのを嫌がってました。
ましてや国衆の自立など秀吉の統治構想にはゼロだったでしょう。
でなければ、あちこちの国衆を潰したり、本貫地から離したりしません。
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(豊臣家紋ロゴ:著作権&作成者はロン様)
死んだ為清には二人男子がいました。
男子だけに連座を恐れたのでしょう。
父・為清が成敗されたのを知ると、母親が二人の子を連れ京へと奔った・・・・
必死に逃げたんでしょうねぇ・・・・母がってことは子供は当時、幼かったんでしょう・・・( ◢д◣)
で、子の一人は松平加賀(前田利常)、一人は永井信濃守(永井尚政)に仕えたそうです。
島津からの安全地帯ったら、江戸幕府絡みか島津以上の大藩の懐(ふところ)しかないもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
貴久の命で18代目となった清綱(実は15代目の孫)は、形式上は婿養子16代目・茂清の養子という形をとりました。
家督相続ってのは、手続きが面倒くさいもんなんですわ。( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ うんうん
蒲生氏バナ~あとちょっとだけ続くんですが、それは またの話^-^