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【命運・・・二つの犬塚・肥前編3】


肥前犬塚氏5兄弟の基礎データ(名前の前に★マークがある人物は養子です)

(東犬塚)
崎村城主、長男・家直⇒★鑑直⇒鎮直⇒家広(←読みは「いえしげ」)(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^
(西犬塚)
蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略
(直鳥)
直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略
【小松城主、家清の子で尚家弟・鎮家】

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略




肥前犬塚氏の推移は、キーマンである犬塚鎮家の経歴を辿ると判りやすいです。
個人的に「肥前の出世魚」と呼ばせてもらいます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて「少弐配下にして大友配下」だった犬塚一族は、少弐の衰退・滅亡で「龍造寺配下にして大友配下」になりました

県議員と国会議員、それぞれの後援会入りみたいなもんですな( ゚Д゚)y─┛~~献金の代わりに軍役があるぉ

ただし肥前犬塚一族全てが龍造寺配下になった訳でなく、直鳥犬塚家は大友配下オンリーでした


年代としては、おそらく1559年(筑紫がハチャけた年)の事になると思います。
直鳥家の家清と尚家は大友宗麟の命により筑紫惟門を攻めたのですが、共に戦死してしまいます。
そのため小松城主で尚家の実弟・鎮家が直鳥家の家督を継ぎました。

系図を見ると戦死した尚家には男子がいたのですが、鎮家が継いだところを見るに未だ幼少だったのでしょう。
小松城は・・・もしかしての廃城・・・今となっては位置も定かではありません。

ちなみに直鳥城は佐賀県独特のクリークを利用した城でした。
濠があり小島のようになってて、各曲輪へは小舟で移動してたと思われます^-^

東西犬塚家に決定的な事が起きたのは1569年

大友軍が龍造寺討伐に動いたからです

大友オンリーだった直鳥家と違って、東西犬塚家は「龍造寺配下にして大友配下」でした。
東西犬塚家は龍造寺か大友か・・・という究極の選択を迫られます。



東犬塚は龍造寺を選び、西犬塚は大友を選んだ。
元々が大友派の直鳥・犬塚鎮家は西犬塚を支持。

どちらが勝っても生き残るため・・・という関ヶ原の真田家的選択ではありません。
東西犬塚家はガチで対立。
西犬塚尚重は、東犬塚鎮直を謀殺。西犬塚尚重は自身も返り討ちにあって死亡しました。

西犬塚尚重の長男は龍造寺(実は手を下したのは鍋島直茂)に殺され、次男(実は生母が隆信妹)のみ助命されました。
龍造寺に攻撃された西犬塚の蒲田江城は、この時に一度落城します。
直鳥・犬塚鎮家は筑後に亡命。

ここからが犬塚鎮家の出世魚~~実は彼は物凄い武勇の持ち主でして「有馬との戦いに彼奴の武勇が必要な件」
て、ことで召致され筑後から肥前へ帰還~かつて西犬塚の居城・蒲田江城に入ります。
先陣として活躍した犬塚鎮家は、両弾二島(龍造寺氏配下の武勇優れた4人)の一人に数えられたんです。

その功績により犬塚鎮家には森岳城(後の島原城)が与えられ、蒲田江城は廃城になりました。
現在、蒲田江城本丸跡には鎮西出雲大社が鎮座しています。

一方、崎村城ですが、謀殺された鎮直の跡を息子の家広(いえしげ)が継ぎました。
1572年に龍造寺隆信の命で、三根郡(現みやき町)中津隈城へ引っ越した為に、崎村城も廃城になってます。

江戸期に入って鍋島に仕えた東犬塚さん~今度は小城の方へと移動したんで中津隈城の短い歴史は終わり。
ちなみに中津隈城跡には、中津隈宝満神社の社殿が建ってるんで遺構殆どなし^^;

江上・八院合戦の佐嘉勢第十二陣に犬塚三郎右衛門茂虎の名があります。
名乗り(三郎右衛門の部分)と経緯から推測するに、東犬塚氏だと思います。
5男系(古賀館主・家喜の子孫)直鳥系・西犬塚系の江戸期以降の詳細はシオレベルでは辿れませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

こんな感じで肥前犬塚一族は、バラバラで各地を転々としたために、現代佐賀県のアチコチに「犬塚さん」がいる・・・という訳です。
(1569年には筑後犬塚さんが肥前に引っ越してきた事になってるし)
ここまでバラバラだと、現代佐賀県の犬塚さんは「先祖が、どの犬塚」なのか辿るのは至難の業じゃないでしょうか^^;

一部ネタバレしちゃいましたが詳細は本編の中で(*´pq`)
大物の争いに翻弄された犬塚家の運命を盛り込みたいと思います。
それは・またの話 by^-^sio

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