正月休みは今日までまのでノンビリしてます^^
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さて、時代は戦国から江戸初期へと流れ・・・て、いると思うのよ~~~~~~~~~~
だって本藩人物誌には年代の記載が(以下略)
実は、前回の蒲生氏まぼろし系図には、その後編バージョンがあるのです(。-_-。)b
それが蒲生氏19代目・清宣に関する事。
公式系図では19代目・清宣は、18代目清綱(15代目の実孫)の養子ということになってます。
が、本藩人物誌・蒲生宮内少輔清宣(熊千代・十郎次郎)の項では、
清綱まぼろし嫡子・信清の養子になってるんです。
( ゚д゚)ナ・・・ナンダッテーーー
しかーも。
信清には、18代目まぼろし娘=信清妹がいて、19代目・清宣は信清妹の子だ
と言うではないですか!( ゚д゚)ナ・・・ナンダッテーーー
文章じゃまどろっこしぃので、画像が不出来な手書き系図を修正したのがコチラ↓
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以下原文(赤文字シオ補足)
信清(←系図に存在しない まぼろし嫡子)養子実ハ留守左衛門佐景親子母ハ信清妹也
句読点がないので判り辛いかもですが、要するに信清妹は留守家に嫁いだらしい。
単に妹としかないので、同母妹か異母妹かまでは判りません。
で、母子SETで清信の養子縁組して蒲生氏の家督を継がせたようです。
母子SET養子縁組は、現代でこそ殆どないですが、江戸期以前にはママありました。
つまり家督を継ぐべき子が幼く&生母が未亡人だったりすれば、母子共に引き取るわけです。
むろん実親の手元で育てて、子供が しかるべき年齢になってから養子縁組するパターンもありますよ^^/
信清が「まぼろし嫡子」なので、その妹も系図には記載されていません。
龍伯公(島津義久)国分へ被成御座候節御普請奉行其後納殿役相勤
゜ ゜( ∀ )ぅ!?目が滑る~ん
超意訳:義久公が国分に城を作るときに(19代目清宣が)普請奉行を勤め、その後は納戸役を勤めました
義久が国分城を作った時(1604年)に、19代目はお役を果たせる成人男子だったのか・・・
いったいぜんたい清信は幾つだったんだ?(・∀・)アヒャヒャ
あぁ・・・時系列がぁぁぁぁあああ------
も、考えるの止めよ~ループするだけだわぁ( ◢д◣)
続き
家久公(忠恒)ヨリ御加増三十六石拝領←島津事情の中では頑張って捻り出したと思う
19代目のあとは、その息子(松熊丸)が20代目になったんだけど、また男子に恵まれなかったらしい。
19代目の孫(20代目からみて実甥)を養子(正左衛門)に迎えて家督を継がせた。
本藩人物誌の記述にある異説?を信じるなら、
男系直系は絶えてるけど娘の方の血統で継いでいるから、赤の他人を養子にするよりは気持ち的に穏やか(揉めない)と思う。
ちょっと個人的に面白いと感じたマニアックな話が一つだけ。
19代目の娘が嫁いだ先というのが、国分衆の東郷五郎兵衛だと言う点かな。
国分衆の東郷は渋谷ファミリアの東郷じゃなくて、示現流創始者・東郷重位の系譜なんです。
国分衆は家久と政敵となった正室・亀寿に忠節を尽くしてた家臣団ですが、
戦国デューク東郷だけは暗殺剣でもって家久からも重用されてました。
あ、ちなみに東郷は剣の腕前だけでなく行政官としても優れてましたよ^^/
戦国期に貴久公に背いた為に16代目・17代目が国賊とされた蒲生氏にとって、示現流・東郷家筋との縁組は良縁と言えます。
更に21代目は、さまざまな御役を経て須木地頭になったようです。
蒲生氏の名誉は、お役を真摯に勤めることで静かに回復していったのではないでしょうか。
ここから先の江戸期は専門外の自分には理解の範疇外ですので、
大団円な雰囲気の中で、蒲生氏編を締めたいと思います^-^
鎌倉~江戸初期と、最後まで読んで下さった方には お付き合いありがとうございました^-^
本藩人物誌史料を貸して下さった監修様には、この場を借りて改めて御礼申し上げますm(__)m