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相良家文書の蒲池美作守能久って方が登場するんです( ̄ko ̄)
ん~図書館からコピーした部分は戦国期の永禄年間以降なので、それよりは前の年代です。
作成者:(筑後国衆連著)
三池上総守親盛、溝口薩摩守長資、河崎出羽守鑑繁、蒲池美作守能久、西牟田播磨守親毎
あて先:進上 鹿子木三河守殿←肥後国衆
年 代:1月23日(書状のため年度不明)
この能久が蒲池がニ家に分裂した時の当主とされています。
相良家 申 29(筑後国人西牟田親毎他四名連署書状)か・・・【慶応大学アレコレ検索】・ ̄)じぃーぃっ
で、正月休館明けにさっそく図書館に行ったんですが・・無かったil||li _| ̄|○ il||l
「相良家文書・家わけ5-1、5-2」には収蔵されてませんでした。
「甲29」ってあるから、別分類の復刻版が地元にないor出版自体が未だのどっちかです。( ◢д◣)ショボン
「蒲池物語」では上下蒲池の分裂は、大友親治の命令で上妻郡の押さえのためと説明されています。
よく出回ってるネットで見かけたりするのは、蒲池の勢力を恐れて大友が分けたんだ~とか書いてます。
が、天文3(1534)年における大内の筑後侵攻において、
能久が肥後菊池&大内側
兄重久が大友側
と戦国アルアルの(生き残りのため?)分かれて行動したために、この後から分裂したとも考えられるし、
この段階で既に分裂してたとも考えることができます。
大友の命令でニ家に分裂したという確たる典拠(一次史料)はないようです。
「蒲池家譜」は、上蒲池の家譜であるため柳川の蒲池鑑盛(宗雪)との系譜関係は全く判らないそうです。
いずれにせよ
・蒲池能久が、上蒲池家の初代とされていること。
・能久に兄・重久がいて、別々の軍行動をしていること。
の二点から、この兄弟の代で柳川の下蒲池、山下の上蒲池に分裂したのは間違いないようです。
次は、もう少し詳しく系譜を辿る次章へと移りたいと思います^-^
参照文献:「柳川の歴史2」