今日から真田丸だと思うと、今からwktk(ワクテカ)が止まりません( *´m`)ムフー
http://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代
緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
(折封上書)
「田尻中務少輔殿 親治
(異筆)
「明応八年四月九日筑前国怡土郡領、遠江守治種」」
筑前国怡土郡蔵持之内伍拾町坪付別紙在之事、預置候、可有知行候、恐々謹言、
明応八年
四月九日 親治(花押)
田尻中務少輔殿
(切封)
「(墨引)」
んーーと、読み下すほどの文章でなく、知行充行状の定型文です。
これまで幾つか見た文書のパターンから行くと、
大友家では領地安堵のことを、「知行を預ける」という表現をするのがテンプレのようです。
筑後田尻氏_2・大友との関係強化
こちらで紹介しましたが、この田尻中務少輔種久の代から大友との関係が強化されます。
で、嫡男・又三郎が偏諱を受けて遠江守治種(はるたね)となります。
それが田尻家文書7_大友親治名字状です。
嫡男の偏諱と同時期に、パパ種久が大友親治から知行安堵を受けていました。
それが今回の文書です。
筑前国の怡土(いと)郡蔵持(=糸島市蔵持)に田尻氏の領地があったとはシランカッタ。
50町=5反(300坪×5反)=1500坪/3.3㎡=約455㎡
って、数字だとピンと来ないんで、比較するなら蔵持ご近所のゴルフクラブと同じくらいの敷地面積。
現代でも川沿いに田園風景が広がってるので、豊かな土壌だったのでしょう。
怡土郡の原田氏が全盛期を迎えるのは、後年のこと。
原田氏が台頭してきた頃には、田尻家が蔵持の土地を維持するのは難しくなっていたでしょう。