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筑後田尻氏_3・朽網親満の乱

蒲池氏の史料が少ないらしく、次章で年代が飛んでいるので、先に田尻氏の方を進めます。
真面目記事ばかりですいません。
でも戦国初期ファンなので、書いてる本人は萌えてます ・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

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参照文献「柳川の歴史2_蒲池氏と田尻氏(編集:柳川市史編集委員会)」

★朽網親満の乱
大友義長は永正12年頃に家督を親安(=義鑑=宗麟パパ)に譲ったとみられている。
翌年永正13年8月に朽網親満が家督を継いだ親安に対して謀反を起こした。

肥後守護職・菊池政隆討伐で手柄を立てた朽網親満だったが、親安(義鑑)を廃して大友一族で出家していた大聖院宗心に家督を継がせようとした。
(系図的な説明はパス!←ぉぃ)

筑後で朽網親満の謀反に呼応し挙兵したのが黒木筑後守・河崎刑部大輔など。
この乱で田尻治種は大友親安(義鑑)に味方し功績により永正15年3月に領地安堵を受けている。

が・・・ここでトラブルが・・・^^;

田尻氏が安堵された土地は「うちのもんじゃヾ(*`Д´)ノケシカラン!!by筑紫氏」とクレームが出た。
で、大友の奉行から「確認の上、クレーム通りなら代替地を与えます( ̄■ ̄A;アセアセ」と返事している。
(この流れは田尻家文書にあります)

てか、龍造寺の時も安堵したはずの土地が実際は足りないとかあったし、大友が大雑把というより本国から離れてるがゆえの齟齬や勘違いがあるんだろうと思う。

で、このときの蒲池氏だが、どうも謀反した朽網親満サイドだったようです。
ただ具体的に何か行動したって訳でもないみたい。(共謀してるって話の段階)
細かい部分は蒲池氏側の記録がないようなので不明。
ですが、田尻氏と蒲池氏が別行動をしていたのは間違いなさそうです。

次回、自分が結構気に入ってる【最後の肥後守護職・菊池義宗】が歴史の舞台に登場します( *´艸`)

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