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平安の東北武士(たぶん中編)

すいません。間を置くと自分の記憶から零れ落ちそうなんです:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ
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参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓

戦国期と平安期と城の防御スキルを比較したら、戦に次ぐ戦で日進月歩の戦国期が優れているのは当然だ。
が、防御力の多寡は別にして、平安期には地形や自然を利用した城造りがなされていた。

「前九年の役」における安倍氏の柵(城)は大別すると2パターンあったらしい。

A)平常時レベルの防御能力はあるものの、さほど堅固でない柵
B)攻め寄せにくい自然地形を利用し、Aより防御能力が高い柵

前九年の役の安倍氏も柵を死守することなく、最後は脱出し逃亡している。
平安時代の居館は、あくまでも生活の場であり経営拠点であった。
支配(経営)拠点であっても、柵そのものは死守すべきものではない。
さらに防御能力の低さは居住者自身が知っている。
そのため、戦国期のような玉砕という発想はハナからなく、ヤバイとなったら脱出⇒降伏という流れになる。

そんな平安期の奥州でも難攻不落と評された柵がある。
それが金沢柵だ。

前九年の役の後、勝者として山北三郡に加え奥六郡も手に入れた清原氏。
清原氏というと時事ネタみたいだが、たまたま苗字が同じだけで受け狙いではない^^;
その清原氏の内部争いから「後三年の役」が起きる。
大丈夫だとは思うが念のために言うと、
読みは「ごさんねんの えき」で「あとさんねんの やく」ではない(`・ω・´)キリッ

指導者・指揮官&交戦勢力が
源義家+藤原清衡VS清原家衡+清原武衡
この戦いに勝利することによって、清原氏に代わって奥州藤原氏が覇者となる。

源義家が奥州と関わったのは、そもそも亡き父が鎮守府将軍として前述の安倍氏と戦っていた。
脳みそが追いつかないので色々端折るが、八幡太郎義家も鎮守府将軍を継ぎ、官位も正四位下、出羽守、下野守、陸奥守と奥州方面。
通常、国司(**守)というと、国司御本人は都で雅ライフをエンジョイするんだが、八幡太郎義家は鎮守府将軍として現地入りした。

逆を言うと八幡太郎がいたから、戦の規模が大きくなったと言えなくも無い^^;
朝廷では「後三年の役」に命令書である官符を発給しておらず、「後三年の役」は私戦扱いで恩賞が出ていない。
(※当時は官符なしで戦をすることは違法行為だった)
(※[符・ふ]については古文書学入門で書いたように、上の役所から下の役所へ下す文書^^b)
官符が出なかったことは陰謀説とか色々出てて、自分の脳内では処理しきれないのでパス(。-`ω-)←へたれ

とにかく上記二つの勢力が激突し死闘したのが金沢柵だった。
金沢柵(城)については、擬定地とされる跡の発掘調査が進んでいるらしい。
調査内容は書いてなかったが論考内の参照文献によると、調査報告書は横手市教育委員会から発行されてるそうな。

清原氏は初めは沼柵に籠り八幡太郎義家軍を撃退したのだが、
「これ(沼柵)にまさるところなり」として、金沢柵に入った。

論考では金沢柵の形態に触れているのだが、それは またの話^-^    

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