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【7-2_肥前今川の遺恨】通史①肥前千葉氏

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寛正6(1465)年、肥前で今川家と千葉家が争うなかで、少弐・大内・大友にも変化があった。

まず同年9月3日、大内教弘が死去
同年9月23日、嫡男・政弘が19歳の若さで家督を継いだ。
ちなみに応仁の乱は、1年4ヵ月後に始まる。

大内教弘が死去したことで、筑前守護職が空席になった。
(家督を継いだ政弘は未だ若い)
同年9月10日、少弐教頼が室町幕府より筑前守護職に補任される。(佐賀市史)
あいしゃるりたーん~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
色々あって(やらかして)追討されてたんですが、壮齢の大内当主死去という事態のお陰で復活(。-_-。)vブイッ♪

一方、大友家文書によると、この年に大友親繁が筑後守護職になったとある。
実は、この方・・・四男( ̄ko ̄)
家督を継いだ時期や、改名した時期など肝心の部分が不明なんですが、とにかく以降の大友家当主の座は、この大友親繁の系統が独占します。

翌年の2月28日、文正へ改元
鹿島市史によると、藤津の大村氏が肥前千葉への備えとして有尾城を築城したとあります。

大内・今川・千葉胤朝のタッグという不安要素はあったものの、肥前千葉氏の西肥前攻略の意欲は衰えていなかったようです。
タッグ組んでた大内当主が亡くなって若年当主だしネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、この文正元年(1466)に「河上の戦い=今川VS千葉」が起きます。
史料の記述が簡素でイマイチ要領得ないんだが、要するに決着はついてないらしい。
肥前今川家では、ますます肥前千葉への遺恨を深め、縁戚だった両家の関係は更に拗れることとなった。( ̄ω ̄A;アセアセ

えっと系図、系図~これがないと自分も判らんのよ~アタフタ ヘ( ̄□ ̄;)ノ ヽ(; ̄□ ̄)ヘ アタフタ

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家系図・肥前千葉系図・決定
まずピンクな今川系譜を辿りますね。
で、話が遡る。(ゴメン)
肥前今川氏の本拠地は小城郡中郷にある牟田城で、小城の肥前千葉の同じエリア内にいた。
両家が縁戚(肥前千葉の娘が今川仲秋に嫁いだ)に成った時、今川仲秋は肥前守護職で肥前千葉にとっては願ってもない良縁だっただろう。
関係が微妙になるのは、今川了俊が九州探題職を解任され、弟・仲秋と一族を連れて駿河に帰ってしまったから。
残ったのが「肥前今川家」となる。

縁戚として両家は協力関係だったのだが、不穏になるのは少弐が絡んでる。
応永11(1404)少弐貞頼が肥前千葉に介入しようとして戦になった。
それが同年4月12日、佐賀郡「川上の戦い」
この戦いで肥前⑥千葉胤基、渋川満頼(今川了俊後任・九州探題)、今川国秋、三家連合軍が少弐勢を撃退した。
・・したまでは良かったが、ここで今川国秋が戦死してしまう。
おそらく肥前千葉と肥前今川の力関係が変化するのは、名門今川家の血を引いた国秋の戦死からだろう。

さらに今川家にとって不運だったのは、縁戚と同じ小城エリアであるがゆえに肥前千葉の内紛に巻き込まれた事。

7代目千葉胤鎮(兄)と8代目千葉胤紹(弟)が家督を巡って争ったときに、肥前今川は8代目弟派だったのね。
ほら、8代目弟のバックにはドン・大内と足利義教(あちこちの内紛に口出しした室町将軍)がいたから。
で、そのときの今川当主が戦死した国秋の子・今川国治。
胤鎮・胤紹兄弟からみて従兄弟の息子(従兄弟甥?)にあたります。

一時は胤紹が8代目になったんだけど、兄・胤鎮がリベンジして胤紹は討たれた。
で、そのときに今川国治も討死したの。
復帰した胤鎮は肥前今川領の佐嘉・杵島の両郡を押領しちゃった。( ◢д◣)ショボンな今川

系図では省略したけど今川国治には嫡男がいて、この息子も父と一緒に戦死した。
てな流れで衰微した今川家だったんだが、生き残った弟が肥前千葉から偏諱を受け今川胤秋となり、与賀・川副両郡の地頭として復活した。
という系図を見ながらでないと脳に浸透しない経緯があったんです。

この時点・・・・肥前千葉から偏諱を受けた時に、今川家は千葉家と対等の協力関係ではなく、上位者と被官の関係になったと言える。

今川胤秋から見て、胤鎮⑦⇒元胤⑨⇒教胤⑩という系譜は【父(国治)と兄の仇の系譜】
千葉胤朝から見て、胤鎮⑦⇒元胤⑨⇒教胤⑩という系譜は【父(胤紹)と兄(政胤)の仇の系譜】
双方、父と兄を殺された者同士のタッグで、二人の背後にいるのが西国のドン・大内氏

今川胤秋にしてみれば、いったん戦になり千葉との関係が拗れると、色々と過去のアレコレ思い出しちゃう訳ですよ!
例えば、肥前千葉に敗北したために、膝を屈し被官関係になった悔しさとかとか。
何せ肥前千葉氏は【肥前国主】と言われた全盛期ブイブイな頃だからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
もう、ここまできたら修復は、まず無理ですな( ゚Д゚)y─┛~~

翌、応仁元年、ついに応仁の乱が始まる
中央政界の混乱は地方に波及し、たちまち乱れた。
今川家と千葉家の争いも更に激しくなるのだが、それは またの話^-^

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