http://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代
現在、水ヶ江は地名になってますが、築城前は槇村と呼ばれていました。
【戦国大名閨閥事典(ブロ友様提供資料)】によると、
「康家は延徳3年(1491)頃、槇村に別館を造り水ヶ江館と称し、
永正2年(1505)には新館を加え、末子家兼と共にこの地に隠居して、龍造寺中興の基礎をつくった。」
剛忠(家兼)パパン・康家は生没年が不明な為、剛忠(家兼)が水ヶ江を遺産として継承した正確な年度は不明です。
どうやら家和(康家次男)家督相続時だけでなく、1505年までは存命だったみたい。
剛忠(家兼)の長命・子沢山は、パパン康家DNA譲りの生命力ですね(^ -)---☆Wink
佐賀市史によると上記にある永正2(1505)に隠居したとあります。
その時に作った隠居館が「水ケ江茶屋」です。
ですから家兼が水ケ江城を譲り受けたのは「父が隠居した時」と推定するのが穏当でしょう。
館だった水ヶ江を城へとビフォーアフターしたのが、剛忠(家兼)です。
西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、本館位置は現在の乾亨院(佐賀市中の館町7-11)
乾亨院・・・日程に余裕があれば行きたかった (゜-Å) ホロリ
『史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将』(中西豪著 )より抜粋(ブロ友様提供)
前略 「水」は竜の連想、「江」は方言の「え」、家の謂(い)いであり、
水ガ江とは「竜の家」ほどの意味を持たせたものである。
なるほど~と思いました。
確か中西先生は地元の郷土史研究されてる方ですので、方言解釈は異論のないところだと思います。
龍造寺家は史料の中で、簡略に「龍家」と書かれてる事が結構あります。
それと掛けてるのもありそうだな~と^^
水ヶ江城の特徴は肥前独特のクリークを利用して築城された城であるという点です。
クリーク(ウィキペディアより抜粋)
水域が陸地に入り込んでいる地形(入り江)。または 水を流すための人工的な構造物(水路)。
肥前の場合は自然のままのクリークと人工的に造ったクリークとの混合です。
龍造寺の村中城、水ヶ江城、少弐氏の与賀城。
半径数百m以内に3つの城が集中したのは何故なのか?
それは自分の中で長い間の宿題でした。
結論から言うと、村中城、水ヶ江城、与賀城も、築城は地形的にココでなければならなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio