【文明10(1478)年】南九州限定年表
http://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代 ・島津忠昌~薩南学派(朱子学)の基礎を作る今日は、これだけ^^;薩摩の戦国時代は島津忠昌が島津当主でありながら自害した時から始まった、とも言われています。シオは「父が偉大すぎて大変だった息子萌え」なので、この忠昌が直球ど真ん中です。川* ̄д ̄*川ポッ...
View Article地図から見た肥前
ちょっと過去記事を再編集してるので被りますが、まぁノンビリお付き合いください。自分は「父が偉大過ぎて大変だった二代目萌え」でして、色々好きな二代目はいるんですが、肥前では初代藩主・鍋島勝茂が好きです。むろんパパで藩祖の鍋島直茂公も大好きです。で、鍋島家が主家(龍造寺)から肥前を簒奪したんじゃないってことを証明できないかと思い肥前を調べ始めたのが、元々の動機でした。んで調べているうちに「始まりの切っ掛...
View Article真田丸_籠城20日目【戦端】
はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。史実検証に拘る方はスルーしてください^^/尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆利休・・・なんか怪しい占い師みたいだった,;.:゙:..:;゙:.::...
View Article河上神社文書178_千葉胤勝同興常蓮著禁制
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(手っ取り早く知りたい方はココを読んでね^^/) 禁制肥前国鎮守河上社之事、既自在古、京都 御制札、爲明白上者、殊當手軍勢甲乙仁等、不可致濫妨狼藉、若於違犯之輩者、可處罪科之状如件、天文三年 弐月拾五日 平(千葉)興常(花押) 平(千葉)胤勝(花押) 川上山...
View Article河上神社文書184_龍造寺常家寄進状
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(手っ取り早く知りたい方はココを読んでね^^/)(端裏上書)「河上山座主某参 龍造寺伊豆守」奉寄進河上大明神 十弐町、右意趣者、此度之御弓箭、當家同忰者、武運長久息災安全之所也、仍爲巳後、寄進之状如件、天文十七年戌申 八月廿七日 (龍造寺)常家(花押)マニアックな人物ですいません。,;.:゙:..:;゙:.::...
View Article河上神社文書209_神代勝利寄進状
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(手っ取り早く知りたい方はココを読んでね^^/)態令啓上候、然者、爲武運長久、至河上宮小力武拾弐町、末代奉号寄進候、無御油断御祈精奉頼候、猶甚深可得貴意候、諸慶、恐惶謹言、 神代刑部少輔 天文十七年戌申十二月廿三日 勝利(花押)河上山...
View Article河上神社文書185_龍造寺鑑兼寄進状
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(手っ取り早く知りたい方はココを読んでね^^/)奉寄付於河上大明神地之事 肥前国佐賀郡龍造寺八十町之内、七反、拜進不可有相違之状如件、天文廿一年 龍造寺孫九郎 十一月十五日...
View Article実相院文書49_神代勝利寄進状
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(手っ取り早く知りたい方はココを読んでね^^/)(包紙上書) 「寄進状」 再拝々々敬白在肥前之国佐賀郡之内才所分弐町八段之事、武運長久爲願所、於 河上大明神致寄進候、仍爲末代之状如件、天文廿二年癸丑八月吉日...
View Article真田丸_籠城21日目【裁定】
はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。史実検証に拘る方はスルーしてください^^/尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆http://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ...
View Article地図から見た肥前小田氏
室町時代の色彩を残す与賀神社(国重文指定)の楼門は、少弐政資が与賀神社を中興した際の建造ともいわれている。居城を増改築し与賀城を築城(正確には改築)。与賀郷の開拓・開墾。入り江を改修し今宿・今津・相応津等の開港。大内に大宰府を追い出され肥前・与賀郷に入った少弐政資。上記に挙げた与賀における少弐の業績を、支えていたのが対馬・宗氏だ。朝鮮交易セレブだった対馬・宗氏だが、少弐教頼(ダディ)少弐政資(シ...
View Article田尻家文書27_大友義鑑知行預ケ状
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(折封上書)「田尻又三郎殿 義鑑(異筆)[大永八年九月九日、加領状坪付、親種代]」 (端裏切封) 「(墨引)」筑後国三潴郡之内、中牟田神崎分五町五段分之事、預進之候、可有知行候、恐々謹言、(異筆)「大永八年」 九月九日 義鑑(花押)...
View Article田尻家文書31_大友義鑑袖判知行坪付
坪付とは、領地の土地目録のようなものです。大友義鑑は坪付(土地目録)に袖判(そでばん)することで領地を安堵したんです。袖判(そでばん)=文書の袖 (右端)...
View Article田尻家文書45_大友義鑑名字状
緑文字---原文(翻刻版)ママ青文字---読み下し赤文字---意訳(折封上書)「田尻又三郎殿 義鑑」(端裏切封) 「墨引」(付箋)「十一月七日、此の又三郎ハ鑑種若時之名也」 親種跡式継目 鑑種」 =====本文ここから=====名字之事承候、以別紙、認進之候、恐々謹言、 十一月七日 義鑑(花押)...
View Article地図から見た肥前石井氏
石井家が正式に龍造寺配下になった時期は調べきれませんでした。ウィキペディアだと「田手畷の戦い(1530年)」に鍋島氏と共に龍造寺に加勢した事になってます。石井氏は元々は下総千葉氏家臣で、はるばる肥前千葉氏に仕えた譜代みたいなものです。肥前千葉氏が東西に分かれた時は、総領家である東千葉初代興常に仕えていたようです。石井家が龍造寺配下にったのは、石井家5男・兼清の強力なアピールがあったとされています。龍...
View Article真田丸_籠城22日目【攻略】
はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。史実検証に拘る方はスルーしてください^^/尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆http://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ...
View Article中編_河川から見た水ケ江城
水ヶ江城、村中城、与賀城。この三城に最も近い河川は八田江川です。基本として佐賀県の河川は、有明海の満干潮によって逆流現象があり、周囲は浸水被害が必ず起きます。むろん現在では河川工事によって改善されてます^^b河川工事前の八田江川の逆流現象による浸水被害は、八田橋まで及んでいたそうです。水ヶ江城・本館があった乾亨院(佐賀市中の館町7-11)から6~800mほどしか離れてません。ちなみに乾亨院も剛忠(家...
View Article後編_河川から見た水ケ江城
国人領主が被官から自立した勢力に成長(戦国大名化)するには、「津(港)」が必要というのは、あくまでも肥前の場合です。例えば甲斐国のような山国では適用しないと思います。肥前における物資流通で河川を使った舟便は欠かせません。何故なら、満干潮による河川逆流現象で浸水被害が必ずあるため「安定した陸の輸送」が困難だったからです。逆を言うと肥前において一定の勢力がある国人領主は、物資流通の要である河川港か河口港...
View Article