ちょっと過去記事を再編集してるので被りますが、まぁノンビリお付き合いください。
![イメージ 1]()
自分は「父が偉大過ぎて大変だった二代目萌え」でして、色々好きな二代目はいるんですが、
肥前では初代藩主・鍋島勝茂が好きです。
むろんパパで藩祖の鍋島直茂公も大好きです。
で、鍋島家が主家(龍造寺)から肥前を簒奪したんじゃないってことを証明できないかと思い肥前を調べ始めたのが、
元々の動機でした。
んで調べているうちに「始まりの切っ掛け」を知ろうと時代を遡るうちに「肥前千葉氏」にハマった^^;
これで肥前から中央政界へ引き返せなくなりました。,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
調べていくなかで、これは学生時代に大嫌いだった地理から逃げられないと悟りました(-ω-;)ウーン
まずはコチラ~方向音痴の道産子シオが、艱難辛苦・試行錯誤の末に完成した「戦国時代の東肥前地図」です。
東肥前戦国(手書きの)ぬくもり地図(*´m`)
右上のグレーゾーンからは筑前・原田氏勢力圏です。
もうちょい上の海岸近くに姪浜城があるんだが、紙が足りなくなって描ききれんかった(爆
調べてるうちに判った(シオ的)トリビア。
( ̄ko ̄)<グレーゾーンの下にある馬場氏の綾部城ですが。。。。。
実は「綾部城」って城はありません
綾部神社の側に幾つか山城があります
その複数の城郭郡の総称が、綾部城の正体(大袈裟?)です
そのうち、遺構が残っているのが「宮山城」「百虎山城」「少弐山城」で、それぞれ「別名・綾部城」です。
少弐一門にして家臣・馬場氏が入ったのが「少弐山城で綾部城」
東肥前19将の一人、綾部鎮幸がいたのが「百虎山城で綾部城」
総称されるだけあって、メチャクチャ近所,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それぞれ直線距離だと1km以内なんです。
詳細はサイト「城郭放浪記」が詳しいです^-^
上記、三城は遺構が残っているので、地元の郷土史ファンなら知ってる方は知ってる・・・という感じだと思います。
ですが道産子のシオには、ちょっと盲点でした( ̄ω ̄A;アセアセ
さて、ぬくもり地図に話を戻します。
肥前の地形における最大の特徴は、時代によって海岸線が違う事です
干拓は何処でもやってるんですが、たいていは技術が発達した江戸期。
肥前は、もっと前から営々と干拓しています。
干拓埋立による造成前なので、現代より海岸線が内陸に引っ込んでます。
例えば、現代は佐賀空港にあるあたりが川副町です。
が、戦国時代は佐賀空港は有明海でして、筑後・一つ木の対岸が川副町。
現代と地名は同じなのに、戦国時代は位置が違うと言う、恐怖の地名スライド現象が肥前の特徴
造成した土地って、殆ど新名称がつくものなんですが、肥前は変えてない所ばっかり・・・il||li _| ̄|○ il||l
但し、平成になってからの土地区画整理により、また変化が起きてます(´;ω;`)ウッ
地元民はジモティであるがゆえに、他県人は地理感覚がないがゆえに、勘違いして地名の森に迷い込む~~
地形から戦国肥前を俯瞰・理解するには、まず当時の海岸線を頭に叩き込まなきゃダメなんです(´;ω;`)ウッ
・戦国時代~与賀庄(現、与賀町+西与賀町一部)
・江戸初期~上与賀(与賀町)+下与賀(西与賀町)
・現代~~与賀町、西与賀町、東与賀町
ザックリですが大体、こんな感じです^^b
戦国時代は東与賀町は一部だけで、後は有明海の底~~( ̄ω ̄A;アセアセ
地名変遷=土地造成ですから、当然、町の大きさ(広さ?)も違うはずですが、さすがにそこまでは調べきれなかったです( ̄ω ̄A;アセアセ
自分が与賀に拘り続けた理由は
少弐が神埼郡・勢福寺城に入る前は、戦国時代の与賀庄が本拠地だったから
龍造寺が大きく飛躍したのも、与賀荘に領地を得たからだと考えているのだが、それはまたの話^-^