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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【リサーチ】嬉野氏・前篇【1武家目】西肥前強化月間

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コメ返事と訪問追いつきました^^/
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ニッポン、チャチャチャ♪ヽ(*´∀`)ノ 嬉野茶♪ヽ(*´∀`)ノ


ではなくて、嬉野氏を勉強ちゅう・・・基礎知識が足りないんで読んでても関連性が・・・自分ガン( ゜д゜)ガレ

嬉野エリアは[勢力拡大した龍造寺][武雄の後藤][有馬]といった3つの勢力の狭間にある要衝地だった。
嬉野氏が、いずれの配下に属するかによって各勢力圏の分布図が変化する。
現代では茶(陶器もかな?)の方で有名だが、戦国時代も何気にキーマンでした。

いろいろスッとばして、元々は「宇礼志野」氏。
「名前(字数)長げーよ!」と漢字を「嬉野」に替えたのは有馬晴純だそうな。
割と時代下がってから嬉野姓になったのね・・・

ルーツの方は白石氏説と四国の河野氏説がある。
そのせいか知らんが、嬉野氏の諱の通字は、河野氏と同じ「通」。
だから諱だけだと被ってる人がいて検索がだな・・・涙目

ちなみに地名の嬉野町も、元々は宇礼志野町だったそうで、戦国時代に地名表記が嬉野町に変化したらしい。
この嬉野町が、そのまま嬉野氏エリアなので姓の漢字改姓と、地名の漢字が変化したのは同時期なんじゃないだろうか。
つまり嬉野氏は全盛期ブイブイだった有馬配下にだったとさ。

てことで日守城も湯野田城も現代の嬉野町にあった。
|ぐーぐるまっぷ|_ ̄)じぃー

あった!

嬉野市嬉野町大字下宿にある西公園が湯野田城址だ!

城があったのは権現山~~~ってあるが、ホントに山認定されてる訳じゃなくジモティ限定の呼称だった。。
どうりで権現山で検索しても山が見つからんはずだ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

土地の方々は「山」って呼んでたそうだが、標高111mほどで実際は、ちょっと高い丘程度。
ここが要害の城・・・か?地形以外のアピールポイントがあったのかな?
後に有馬晴純は、嬉野氏を怒らせてしまい、敵対してた後藤(さらに龍造寺)へと寝返りされてしまいます。
嬉野氏を失うのは大きかっただろうな・・・


訂正、要害は日守城の方だった。
日守城は標高約200mの日守山にあった山城でした。
城としての規模は湯野田城の方が大きかったらしいが、湯野田城より眺望が良かったそうだ(そらそうだ)。
で、この城があった日守山だが・・・・これまたジモティワードil||li _| ̄|○ il||l

平成の現代では地図上の地名表記では残っておらず、ちょっと他県人では判らない。
どうも上岩屋あたりだったらしいが、このあたりダム建設で地形変わってるっぽい^^;
となるとダム建設前の地形を覚えているだろう60代以上のジモティに聞くしかなさそうだ。

一つの町だけで二つもジモティワードがあるなんて・・・ダイジョウブか自分・・・
てか、ちらっと視界に入ったが西肥前側も河川がけっこうあるのね・・・・(やな予感)

まぁいい、とにかく有馬・後藤・龍造寺の三つ巴が激化する中で、
嬉野氏は湯野田城から日守城に移動したらしい。
うん、だいぶイメージ出来てきた^^/

後篇に続く・・・

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