★主要人物たちの履歴★
嬉野通久(生没年不明)が有馬氏の配下として活躍。
1533年、ちょっかい出して来た後藤貴明をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
1533年、ちょっかい出して来た後藤貴明をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
喜んだ有馬晴純が五百三十町の土地を与えて湯野田城主とした(湯野田が本格築城されたのはこの時)
更に名前を「嬉野」に替えたのも、この時でした。
領地を貰った事で「嬉」文字チョイスらしい。
更に名前を「嬉野」に替えたのも、この時でした。
領地を貰った事で「嬉」文字チョイスらしい。
数十年もの間、有馬配下として尽して、有馬晴純の信頼も厚かったのだが「親しき仲にも礼儀あり」
有馬はウッカリ最悪KYして嬉野通久を激怒させる。
有馬はウッカリ最悪KYして嬉野通久を激怒させる。
1573年、後藤家内部でゴタゴタがあり後藤配下だった藤津一党が有馬氏へと帰順した。
喜んだ有馬晴純は、既に嬉野通久に与えていた領地の一部割譲し藤津一党に与えてしまう。
喜んだ有馬晴純は、既に嬉野通久に与えていた領地の一部割譲し藤津一党に与えてしまう。
これに激怒した嬉野通久は後藤に寝返った。
ちなみに通久の嫡男・直通は、過去の後藤との戦で戦死しており、通久は龍造寺が台頭すると後藤から更に龍造寺へとシフトチェンジする。
ちなみに通久の嫡男・直通は、過去の後藤との戦で戦死しており、通久は龍造寺が台頭すると後藤から更に龍造寺へとシフトチェンジする。
通久の正確な没年は不明なのだが、龍造寺の藤津侵攻前に湯野田城で病没してたらしい。
家督は通久の嫡孫・通直が継ぐ。
家督は通久の嫡孫・通直が継ぐ。
嬉野通直(通久の嫡孫)が、後藤から龍造寺に寝返ったのがウィキペディアだと1574年とあるので、
通久の病没は1573年~1574年の間かもしれないです。
通久の病没は1573年~1574年の間かもしれないです。
治乱記だと龍造寺寝返り時点では、越後守直通が存命してた事になってる。
でもって龍造寺に寝返ったのは、横沢城合戦(1576年)で合戦半ばだったらしい。
寝返ったのは宇礼志野(嬉野)越後守直通、同名陸奥守(淡路守?)通益、同子息与右衛門尉、同名大和守の四名。
最初から龍造寺に内通してたのが直通(通直パパ)の実弟にあたる、陸奥守通益親子。
(陸奥守通益は蓮池嬉野氏の祖)
でもって龍造寺に寝返ったのは、横沢城合戦(1576年)で合戦半ばだったらしい。
寝返ったのは宇礼志野(嬉野)越後守直通、同名陸奥守(淡路守?)通益、同子息与右衛門尉、同名大和守の四名。
最初から龍造寺に内通してたのが直通(通直パパ)の実弟にあたる、陸奥守通益親子。
(陸奥守通益は蓮池嬉野氏の祖)
通直(通久の嫡孫)は激動の時代を生き残るのだが「朝鮮の役」で弟と共に戦没し、家督は通久からみて嫡曾孫にあたる盛通が継いだ。
嬉野氏所縁の墓所があるのが宗運寺(嬉野市嬉野町岩屋川内コウ−1554)
開基は小城嬉野氏の祖で直通(通直パパ)の末弟である通純。
小城嬉野氏は、鍋島直茂が孫である元茂につけた83人衆の一人だったのが始まり。
元茂が小城に入るにあたって、そのまま随行した。
開基は小城嬉野氏の祖で直通(通直パパ)の末弟である通純。
小城嬉野氏は、鍋島直茂が孫である元茂につけた83人衆の一人だったのが始まり。
元茂が小城に入るにあたって、そのまま随行した。
てことで嬉野氏は、無事に佐賀藩士として系譜を残すことに成功しました(=^・ω・^=)v ブイ
しっかし直通(パパ)と通直(息子)の諱が、ミラー諱でクラクラしてきそうだ・・
てか越後守直通は後藤との戦で死んでたんじゃないのか?
ジジ通久・パパ直通の没年が明確じゃないので、読んでる自分も混乱する~
まぁ、そのあたりは北肥戦誌と擦り合わせて行きます( ̄ω ̄A;アセアセ
てか越後守直通は後藤との戦で死んでたんじゃないのか?
ジジ通久・パパ直通の没年が明確じゃないので、読んでる自分も混乱する~
まぁ、そのあたりは北肥戦誌と擦り合わせて行きます( ̄ω ̄A;アセアセ
宗運寺があったあたりがジモティ曰くの上岩屋でして、ダム建設と町村合併の絡みか、地名が一部統廃合されてるようだ。
上岩屋の名称自体は残ってるので他県人には判りづらく、日守城の場所は大雑把に宗運寺を目印にするしかなさそう。
上岩屋の名称自体は残ってるので他県人には判りづらく、日守城の場所は大雑把に宗運寺を目印にするしかなさそう。
よっしゃ~~~嬉野氏のチャージ完了(=^・ω・^=)v ブイ
西肥前からみのリサーチ予定なんですが、10武家くらいは軽く行きそうです^^;
西肥前からみのリサーチ予定なんですが、10武家くらいは軽く行きそうです^^;