馬だけどモウ・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ
難しいのは後回しとも言うが、初めに有馬だ後藤だ~と張り切ってもワカランチンなので、周辺から調べてます。
どの時点、どの武家、どの地域がキーになるのか、ヒーリング,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
(なんか広告でやたら目につくんだが・・・)
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ところでシオが肥前戦国史を扱うにあたり基本ベースにしている北肥戦誌なんですが、
江戸期に編纂した人物が佐賀藩士・馬渡俊継なんです。
「俊」の文字は馬渡氏の通字なので、おそらく子孫だと思います^-^
江戸期に編纂した人物が佐賀藩士・馬渡俊継なんです。
「俊」の文字は馬渡氏の通字なので、おそらく子孫だと思います^-^
まずは脳内整理を兼ねて順番にルーツから___φ(.. ) カキカキ
馬渡氏発祥は美濃国馬渡庄城主の源義俊が家祖になります。
本姓は清和源氏なんですが、もともとは坂上姓田村氏の後裔で、源満仲の養子になることで本姓を源氏と称するようになったそうです。
まぁ、このへんは突っ込み不可です。
本姓は清和源氏なんですが、もともとは坂上姓田村氏の後裔で、源満仲の養子になることで本姓を源氏と称するようになったそうです。
まぁ、このへんは突っ込み不可です。
馬渡という地名は滋賀県にもあるので、大元を辿れば同族か、何か所縁があるかもしれません。
ちなみに馬渡・・・という呼称自体は放馬地の事です^-^
とにかく美濃在住前後は本馬八郎義俊という名乗りでした。
ちなみに馬渡・・・という呼称自体は放馬地の事です^-^
とにかく美濃在住前後は本馬八郎義俊という名乗りでした。
それが延暦寺の僧兵がらみで冤罪を蒙り左遷されたので、肥前松浦党を頼って土着しました。
初めに訪れたのが玄界灘に浮かぶ島(佐賀県唐津市鎮西町)。
ルーツ義俊は、島の名前を馬渡島に改め、自分の姓も曾て領地だった馬渡に改めたそうです。
初めに訪れたのが玄界灘に浮かぶ島(佐賀県唐津市鎮西町)。
ルーツ義俊は、島の名前を馬渡島に改め、自分の姓も曾て領地だった馬渡に改めたそうです。
平成の現代は釣りスポット(=^・ω・^=)v ブイ
島の呼称の由来としては、馬の放牧地(馬渡)だったからだって説もあります^-^b
その後は波多氏のツテで島を離れて武雄の川古へと移住しました。
島の呼称の由来としては、馬の放牧地(馬渡)だったからだって説もあります^-^b
その後は波多氏のツテで島を離れて武雄の川古へと移住しました。
おそらく現代の佐賀県で武雄市で川古というと咄嗟に浮かぶのは大楠ではないでしょうか。
樹齢3000年。日本でも全国第5位の大きさです。
馬渡氏も、この川古大楠の姿を仰いだ事でしょう。
樹齢3000年。日本でも全国第5位の大きさです。
馬渡氏も、この川古大楠の姿を仰いだ事でしょう。
全然関係ないけど馬渡さんとこの諱って、現代の命名でもありそう(爆
で、馬渡氏で最も知名度があるのが馬渡甲斐守俊明です。法名は秀岩。
後藤氏との戦いで敗れて、鳥坂峠(嬉野市塩田町谷所)で戦死しました。
川古領は後藤氏がゲッツ~これで馬渡氏は一族離散となります。( ̄ω ̄A;アセアセ
で、馬渡氏で最も知名度があるのが馬渡甲斐守俊明です。法名は秀岩。
後藤氏との戦いで敗れて、鳥坂峠(嬉野市塩田町谷所)で戦死しました。
川古領は後藤氏がゲッツ~これで馬渡氏は一族離散となります。( ̄ω ̄A;アセアセ
秀岩が戦死したのは1533年説と1566年説があるんですが、個人的には1533年説支持です^^/
というのも秀岩の没年がバッチリ刻まれた供養塔(石造宝篋印塔)が残ってるからなんです。
おそらく1533年説の根拠も、その供養塔の存在でしょう。
というのも秀岩の没年がバッチリ刻まれた供養塔(石造宝篋印塔)が残ってるからなんです。
おそらく1533年説の根拠も、その供養塔の存在でしょう。
場所は武雄市若木町大字川古の秀岩寺です。
寺号は甲斐守俊明の法号に因んでおり、開基も秀岩の菩提を弔う為に、その妻が建てた庵が起源です。
妻の供養塔と思われる物が、秀岩の供養塔の隣にあるんですが、その基礎には1558年と刻まれてます。
寺号は甲斐守俊明の法号に因んでおり、開基も秀岩の菩提を弔う為に、その妻が建てた庵が起源です。
妻の供養塔と思われる物が、秀岩の供養塔の隣にあるんですが、その基礎には1558年と刻まれてます。
馬渡一族は、この時に嫡流と庶流が分裂し、敵味方となってしまうのだが、