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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【馬渡(もうたい)氏・後篇】西肥前強化月間・リサーチ2武家目

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秀岩の戦死で離散した一族の中に龍造寺に仕えた一派がいました。
七郎次郎義者の系譜ですが、秀岩の叔父説と兄弟説の2パターンがあります。
ただ、いきなり龍造寺隆信に仕えたのではなく、初めは宗家だった村中龍造寺に仕官。

胤久⇒胤栄⇒隆信って流れで^^b
胤久の没年は1539年なので、秀岩の戦死&一族離散がキッカケで仕えたのなら、やはり1533年戦死説が自然なように思います。

龍造寺サイドとして北肥戦誌(1562年)に登場するのが、馬渡俊光。
WEBにある馬渡系図には同名の人物は探せませんでした。
ですが、龍造寺家臣団の中には名前があり、領地も102町(or120町)とあるので実在の人物なのは確かだったようです。
他に秀岩の叔父(or兄弟)系列の馬渡姓の者が4名、龍造寺家臣団リストに登録されてます。
北肥戦誌を編纂した馬渡俊継が、上記5名のうち誰の子孫なのかはシオレベルでは判りません( ̄ω ̄A;アセアセ




一方、馬渡氏嫡流ですが川古を失ったら大貧民~~~
ではなくて、芦原と白石にも領地があり、そこでガン( ゜д゜)ガレ

現代ですと芦原は武雄市の北方町、朝日町、橘町に跨ってますが、馬渡エリアは北方町側の芦原です

白石町は杵島郡・・・判り易く言うと六角川流域でして、ガチで龍造寺(もしくは肥前千葉)VS有馬の最前線


そして白石町に領地があったことで馬渡氏嫡流は、白石にあった須古城主・平井氏と繋がりが出来ます

もともと馬渡氏は波多氏を頼って肥前に土着しました。
その波多氏には有馬から養子が入ってるし、須古の平井は有馬配下です。

そこで《有馬--平井&波多--馬渡嫡流》という有馬サイド・防衛ラインが出来たんです


この「有馬~平井~馬渡」ラインは、繋がりが強固で、龍造寺隆信も一度では攻略出来てません。
時の馬渡当主は秀岩の息子・俊兼。

・1564年、俊兼の嫡男の元服では有馬義純が加冠役でして「直勝」という諱を与えています。
・1571年、直勝の弟(俊兼次男)が元服し、この時は須古城主・平井経治から「治」の文字を偏諱されて「治俊」という諱を名乗ってます。
・須古城が龍造寺によって落城した時に、馬渡直勝、治俊兄弟は平戸松浦氏を頼って落ち延びてます。

てことで、リサーチ3武家目は、有馬サイドの六角川ライン守護者・須古の平井です~~




おまけ(^ -)---☆Wink

実は馬渡一族の中で秋田に慰霊碑がある人がいます。
名前は馬渡栄助、身分は足軽だったそうで、俊の通字がないのを見ると庶流・親族かな?
遠い秋田で戦死した理由は、戊辰戦争。

昭和になってから、寒い北国で秋田を守る為に死んだ佐賀藩士が気の毒だと、佐賀県での遺族捜しが始まり~
(色々省略)関連委員会が発足され佐賀県側と連携~慰霊祭などが行われ、馬渡栄助の遺骨は119年ぶりに故郷の佐賀県へと帰る事が出来たそうです。
見つかった遺族の方によって、佐賀藩士馬渡一族の菩提寺である正法寺に納められました。

秋田には馬渡栄助以外にも戦死した佐賀藩士がいるので、彼らを慰霊する葉隠墓苑があります。
戦国とは離れますが、こういう話ってやっぱ日本人だな~と気持ちがホッコリしたんで小話挿入してみました^^
詳細を知りたい方は「葉隠墓苑物語」で検索してみてください(^ -)---☆Wink

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