須古って名前は認知してました。
ほら、龍造寺四家に須古があるから・・( ̄ko ̄)
ほら、龍造寺四家に須古があるから・・( ̄ko ̄)
けど恥ずかしながら、佐賀県杵島郡白石町にあったって、今回知りました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
肥前須古城の位置は、現在の須古小学校。
別名を高城または隆城で平城です。
須古城は居城でして、東に男島城と西に杵島城と支城があり、軍事的には3つの城で機能してます。
地形は全体として丘陵地帯で標高はさほどなく、ここが龍造寺軍の攻撃を2度防いだ要害の地には見えないだろう。
何故なら例によって例の如く、現代と戦国時代では地形がかなり変化してるからです。
別名を高城または隆城で平城です。
須古城は居城でして、東に男島城と西に杵島城と支城があり、軍事的には3つの城で機能してます。
地形は全体として丘陵地帯で標高はさほどなく、ここが龍造寺軍の攻撃を2度防いだ要害の地には見えないだろう。
何故なら例によって例の如く、現代と戦国時代では地形がかなり変化してるからです。
築城主は平井経則(兄)か平井経治(弟)のどっちかか、もしくは両方^^;
築城年代は1532~1555年です。
平井氏は元々は少弐一門でしたが、肥前千葉氏の家臣となります。
築城年代は1532~1555年です。
平井氏は元々は少弐一門でしたが、肥前千葉氏の家臣となります。
このあたりの経緯が定かではありません。
というのも千葉一族を扱ったWEBサイト(史料膨大っす)では、平井氏が家臣団の列に入ってないんです。
たぶん、平井氏が肥前千葉家臣となった期間が短いんだと思うんです。
というのも千葉一族を扱ったWEBサイト(史料膨大っす)では、平井氏が家臣団の列に入ってないんです。
たぶん、平井氏が肥前千葉家臣となった期間が短いんだと思うんです。
そもそも少弐一門が肥前千葉家臣になる事情は何だろう~と推測するに、
少弐政資が肥前千葉の男系嫡流が絶えた時に、自分の実弟を当主に据えてます。
(肥前千葉・最後の姫様と実弟を結婚させた)
少弐政資が肥前千葉の男系嫡流が絶えた時に、自分の実弟を当主に据えてます。
(肥前千葉・最後の姫様と実弟を結婚させた)
この家督介入がキッカケで肥前千葉は西と東に分裂してまして、少弐氏から当主を迎えていた方が西千葉氏。
肥前千葉嫡家は、最後の姫君と結婚して系譜を継いだ(少弐の)西千葉氏の方です。
少弐実弟と姫様の間には、どうも実子がいなかったようで、少弐一門である横岳から養子を迎えています。
肥前千葉嫡家は、最後の姫君と結婚して系譜を継いだ(少弐の)西千葉氏の方です。
少弐実弟と姫様の間には、どうも実子がいなかったようで、少弐一門である横岳から養子を迎えています。
この流れのいずれかで平井氏は、少弐から肥前千葉へと随行(派遣?)したんじゃないでしょうか。
従って累代の肥前千葉家臣ではなく、平井にすれば少弐一門から家臣団(しかも他家)の列に入るのが、そもそも面白くなかったのかもです。
従って累代の肥前千葉家臣ではなく、平井にすれば少弐一門から家臣団(しかも他家)の列に入るのが、そもそも面白くなかったのかもです。
で、平井氏は千葉氏の有馬への備えとして白石の地に入った。
全盛期の肥前千葉は杵島郡までが勢力エリアでしたから。
全盛期の肥前千葉は杵島郡までが勢力エリアでしたから。
肥前千葉が西と東に分裂するのと同じくして、有馬が勢力を広げ杵島郡六角川流域まで食い込んできます。
その食い込むキッカケが平井の寝返りです。
年代は1525年。
その食い込むキッカケが平井の寝返りです。
年代は1525年。
寝返った理由は、一応、平井経治の妻が有馬義貞の妹だったから・・・とされてるんですが、
1525年だと有馬義貞数え5歳。。。チャイルドプレ・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ
縁戚関係がホントだったとすれば、寝返り理由として時系列が錯綜してるようで・・・ゲホゴホ
1525年だと有馬義貞数え5歳。。。チャイルドプレ・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメナサイネ
縁戚関係がホントだったとすれば、寝返り理由として時系列が錯綜してるようで・・・ゲホゴホ
実は寝返り前年の1524年に、千葉胤勝(西千葉当主)が大内に寝返ってると噂が立ちまして・・・
例の熱血少弐命家臣・馬場頼周によってo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
っと、千葉胤勝は(当主なのに)西千葉の晴気城を追い出されてるんです。
例の熱血少弐命家臣・馬場頼周によってo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
っと、千葉胤勝は(当主なのに)西千葉の晴気城を追い出されてるんです。
西千葉・胤勝が本当に裏切ってたかは判りません。
馬場に追い出されたから大内に走ったのか、大内に靡いてたから馬場に追い出されたのか、もはや鶏⇔卵の状態です( ̄ω ̄A;アセアセ
あ、ちなみに西千葉と少弐は数年後、元サヤに戻ります(・∀・)★
馬場に追い出されたから大内に走ったのか、大内に靡いてたから馬場に追い出されたのか、もはや鶏⇔卵の状態です( ̄ω ̄A;アセアセ
あ、ちなみに西千葉と少弐は数年後、元サヤに戻ります(・∀・)★
1525年は、西千葉当主・胤勝が筑前に亡命してる真っ最中^^;
少弐一門で千葉家臣だった平井兄弟の寝返りには、この1524年内輪もめが影を落としてたんじゃないでしょうか。
どうも少弐氏は神埼郡に拠点を移しているせいか、有馬からの脅威に対して鈍感です。
もっと突っ込むと、国境が隣接している小城の人々がピリピリしている事に対して鈍感・・・と言った方が正解かもしれません。
少弐一門で千葉家臣だった平井兄弟の寝返りには、この1524年内輪もめが影を落としてたんじゃないでしょうか。
どうも少弐氏は神埼郡に拠点を移しているせいか、有馬からの脅威に対して鈍感です。
もっと突っ込むと、国境が隣接している小城の人々がピリピリしている事に対して鈍感・・・と言った方が正解かもしれません。
思うに少弐は大内との抗争に明け暮れていて、それ中心でしか物事が考えられなくなってたんでしょう。
馬場が西千葉当主を追い出した時、千葉氏の命令で白石に入ってた平井一族の事など、完全に忘れてたと思います( ̄ω ̄A;アセアセ
馬場が西千葉当主を追い出した時、千葉氏の命令で白石に入ってた平井一族の事など、完全に忘れてたと思います( ̄ω ̄A;アセアセ
馬場頼周という人物は少弐への忠義・愛憎が激しすぎるのか、常に遣りすぎます。
その為、少弐に良かれと馬場がやることは、結果として少弐に損をもたらします。
少弐仕様の貧乏神というか少弐専門デスノートというか・・・
その為、少弐に良かれと馬場がやることは、結果として少弐に損をもたらします。
少弐仕様の貧乏神というか少弐専門デスノートというか・・・
周囲の国人・豪族が有馬色に染められて行く中で平井は孤軍に近い状態で奮闘してたのに、少弐と西千葉が内輪もめ。
(アテにならないと心が折れたと思われる)平井兄弟が主不在の西千葉と旧主少弐を見限り、有馬家臣となったのは無理からぬ話です。
(アテにならないと心が折れたと思われる)平井兄弟が主不在の西千葉と旧主少弐を見限り、有馬家臣となったのは無理からぬ話です。
とはいえ、龍造寺にあれほど抵抗したのは何故でしょう。それは・またの話 by^-^sio