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さて葉隠の系譜を紐解く前に、まず龍造寺のルーツを御説明したいと思います。
さて、龍造寺のルーツには諸説あるそうなのですが、一番有力なのが肥前高木氏。
肥前高木氏からは複数の分流が出ており、本記事と直接関連あるのが(高木氏以外で)「龍造寺氏」「於保氏」です。
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ロン様作成:龍造寺家紋ロゴ
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で、ここで家紋に注目^^/
ルーツである高木氏と龍造寺は同じ家紋を使用してたんです。
ちなみに肥前高木から派生した同族は全て日足家紋でして、区別としては御日様の後光のような足?の本数が違います。(デザインも若干違う)
だから同族かどうか、互いに家紋を見れば一目瞭然^-^
よくある「総領の座」争いですが、高木氏と龍造寺が、そういう方向で諍いした形跡は見受けられません。
ただ肥前高木氏が衰退していくなかで、龍造寺の方で(高木に代わって自分が)総領家意識があったかも?
って印象をシオは感じましたが、そのあたりは微妙です。剛忠(家兼)は本音を見せないタイプなんで^^
肥前高木氏は鎌倉時代に勢力を誇り、官位は太宰大弐・・・これはホントか不明^^;
官位はともかく、前回紹介した「肥前国一宮・川上社(現:與止日女神社)」の大宮司でした( ゚д゚)ンマッ!!
それが九州ではよくある南北朝時代に衰退。
代わって台頭するのがシオが大好き「肥前千葉氏」川* ̄д ̄*川ポッ
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ロン様作成:肥前千葉氏家紋ロゴ
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それまでの肥前千葉氏は下総・千田庄(本貫地)と肥前・小城郡を行ったり来たりしてたんです。
イザ鎌倉・元寇のため嫡男でありながら九州へ強制移住させられた肥前千葉氏。
弟が継いだ千葉氏総領の座を諦めきれず、肥前千葉当主は頑張って千葉県と佐賀県を往来。
してたんですが、さすがに南北朝動乱期に二つの領地支配が物理的に難しくなった^^;
そこで千田千葉氏(本家)と肥前千葉氏(分家)に別れ、肥前千葉氏は小城郡に土着した。
もともとが勢力ある一族なので、肥前小城に本腰入れたら、たちまち肥前高木氏を圧倒。
「肥前国一宮・川上社」の大宮司職も、肥前千葉氏にとってかわられます。
肥前千葉が東西に分裂してから、大宮司職がどうなったかまでは辿りきれませんでしたが、
総領家は東千葉氏ですので東千葉氏が大宮司として行動したり、東西両家が和睦し蓮著で川上社に文書を発給してます。
ちなみに元亀4年の西門寄進時の大宮司が千葉胤連(鍋島殿を一時養子にしてた西千葉氏)です^-^
実は肥前千葉氏が「肥前国一宮・川上社」の大宮司だった事をシオが知ったのは割と遅く2013年7月^^;
というのも参照先サイトによって「與止日女神社」が「川上社」だったり「河上社」だったりと表記がバラバラでして。
そのため「川上社」で「河上社」が「與止日女神社」と同じ神社の事を指し、かつ「肥前国一宮」だって気づいたのが、3年前なんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
佐賀県の方はどうでしょう?、
川上社はともかく河上社が與止日女神社と同じって、すぐピンと来ますか?(道産子涙目)
土地勘の無いシオは読んでいても関連性に全く気付かず、地道に地名検索と各国人勢力エリアをコツコツと照合してたら、[神社とデータ]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケンしたんです。
愚痴はさておき、肥前国主とまで尊崇された肥前千葉氏が、「肥前国一宮・川上社の大宮司」というのは、頷ける話(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
祇園社を招聘しただけじゃ、東国御家人系氏族が勢力地盤を築けないよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
肥前高木氏は在地領主クラスまで衰退、家は東高木と西高木に分裂し、肥前千葉氏の被官として偏諱を受ける立場に・・・ (゜-Å) ホロリ
それは・またの話 by^-^sio