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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【考察4・海から見た肥前須古城】西肥前強化月間・リサーチ3武家目

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リサーチで考察と堅苦しくて退屈かもですが、これやらないと自分のデータ整理が出来ないので、ゴメンナサイ^^;

さて、龍造寺の河川流域を支配するノウハウですが、これは主君だった少弐氏からパクっ・・・ゲホグホゴホ・・・学んだと思います。^-^。

肥前に都会?の最新知識を持ち込んだのが、少弐氏を(一時的に)中興させた少弐政資です


中国地方のドン・大内氏に敗れた少弐政資は、肥前与賀郷に引っ越してきました^^
与賀郷は鎌倉時代に少弐氏が地頭だったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー。

1482年、少弐政資は亡き少弐教頼が避難用にキープしてた与賀館を、与賀城へとビフォーアフター。
既存の与賀神社を復興させて、北の鎮護となるように城をリフォームしてます。
さらに小さな津だった土地を港へとグレードアップしたのが、今津と相応津(河口港)今宿(河川港)です。
周囲の土地も開墾した・・・と記録(少弐神社由緒)にあるので、単なる開墾でなく干拓もしたと思います。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a602686.jpeg 少弐家紋ロゴ

与賀神社を地図検索すれば、佐賀(村中)城と数百メートルしか離れてないのが判ると思います^^;
遮蔽物のない平坦な土地で、こんな近所の城ってあり?
無理矢理イメージするなら、自分の家の隣にレディーガガが引っ越して来るような?
(困惑と迷惑と色々巻き込まれそうな感でwww)
龍造寺に元大宰府長官と対等な御近所付き合いなど望むべくもなく、かといって本貫地を簡単に動けるわけもなく、西千葉(当主は少弐一族)からも「うち(実家と西千葉両方)を手伝ってね」のプッシュもあるし~~~
大内とのガチンコに巻き込まれる事が判っていても、逃れられない少弐被官一択(´;ω;`)ウッ

それはさておき干拓に伴う開墾、河川港&河口港を開く事で河川流域ライフラインを掌握、運上金などの収益確保。
などなど、龍造寺は|少弐の遣り方|_ ̄)じぃ・・・と見て覚えたんです。

こういう土地開発構想力・知識の蓄積があるという点で、ぶっちぎり武家名門で鎌倉時代・九州三人衆の一角で、大宰府長官だったのは伊達じゃなかった少弐氏です(=^・ω・^=)v ブイ
大内に敗れた少弐は与賀郷から神埼へと拠点を移しますが、少弐の感覚では「都落ちって気分は無い」と思います。
何せ神埼は、かの平清盛が密貿易にしてた土地。
大内に敗れる前の少弐氏は博多の利権も持ってたので、神埼から博多ルートを復活させる構想が無かったとは言えないでしょう。
尤も少弐が衰退しすぎてるんで、何も出来てないけど,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a4b747b.jpeg 龍造寺家紋ロゴ

龍造寺、、、ぶっちゃけ剛忠(家兼)は、少弐が神埼に引っ越したのを良い事に、川副や与賀の豪族たちを手なずけて、少弐が与賀に残したままの津(港)やノウハウをチャッカリ・ゲッツしてたんです。
少弐命の馬場が「龍造寺抹殺~」と怒り狂うだけのことはしてたわけで・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

元々が少弐一門だった平井氏は、少弐氏が持ってた河川流域利用ノウハウを、一族共通の知識として持ってたと思います。
特に河川周辺の地形を利用した戦に長けた人材だったんじゃないでしょうか。
千葉家臣としては新参になる平井一族が、白石の地に派遣されたのはソッチ方面の能力を期待されたからでしょう。
肥前須古城(佐賀県杵島郡白石町大字堤~現・須古小学校)

須古城は、城濠を南北共に百町牟田まで延長して周囲をかこみ、大手口から搦手に通ずる城郭には一間の土堤を巡らし、南には二重濠になった枳殻(カラタチ)土手を築いて防備を固めていました。

この百町牟田という土地が曲者でして、牟田って湿地帯の事なんですけど、地盤の弱い白石町では足を踏み入れると膝まで没してしまい、まともに歩けるエリアじゃないんです。
更に西に杵島城、東に男島(小島)城を配備し、須古城の両翼としてました。

といった具合に地盤の弱さを逆手にとった自然の要害で、龍造寺勢は須古城に近づく事すら容易じゃなかった。。。。( ̄ω ̄A;アセアセ
最前線の守りに平井氏は、抜擢した千葉氏が期待した以上の活躍をしました。
ただし敵(有馬)側で,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!


少弐政資が少弐を中興させる前にから始めてた、城リフォームだの開墾・開港とかとか資金源、金ヅルは?
となると推測するに、当時は良好な関係で少弐をバックアップしてた対馬・宗氏でしょう。

では平井氏が1525年に千葉から有馬へと寝返った後、築城された肥前須古城や2つの支城の費用の出所は?
これは南蛮貿易で懐が豊かな有馬氏でしょう。
ライフライン(物資・資金)があったからこそ、平井は12年もの期間、龍造寺の侵攻を阻み続ける事が出来たんです。
でなければ軍費調達は領民を絞るしかなくなるので、下からの怨嗟で戦闘続行不可に陥ってたはずです。

有馬氏は肥前須古城への援助に対し、出し惜しみはしなかったと思います。
バブル時代の銀行融資が如く、ゆるふわ審査で平井が望むだけ与えてたんじゃないでしょうか。
というのも肥前須古城には、六角川流域支配の要地というだけでなく、さらに重要な役割があったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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