永禄年間(1560年代)後半・・・日向の伊東家は全盛期だった・・・( ̄  ̄)トオイメ。。
永禄12(1569)年、日向・伊東義祐は、傀儡当主(義祐の娘婿)を擁立した北原家の本貫地・真幸院に対し、自らが領地宛行状の発給を始める。
この公儀権確立を持って、日向国の殆どは伊東義祐の手中になったと言える。
相良+伊東VS未だ力が分散してる島津。
この状態のままであれば、島津は力尽きてしまうか、そこまで至らずとも、後年の飛躍は無かったかもしれない。
だが、運命の歯車は島津のために動き出した。
永禄12(1569)年7月11日、伊東義祐の嫡男・義益(よします)が病のため亡くなる。
伊東義祐の傲慢・奢侈な生活は家臣も眉を顰め、領内でも袖を引き合い笑っていたのだが、
にもかかわらず内部がまとまってたのは、死んだ義益の存在が大きかった。
穏やかで家中から慕われる期待の後継者・義益。
義祐と義益の親子二頭政治でとれていた家中のバランスが崩れ、それはそのまま伊東家繁栄の崩壊となる。
実は伊東義益は次男です。
長男は天文17(1548)年に僅か9歳で夭折してるんです。
義祐は哀しみのあまり出家し(在俗のまま法体姿になる)「三位入道」と名乗ってたの。
日向編でも相良編でも便宜上「義祐」で通してたんだけどね^^;
9歳の子供が死ぬのも辛い・・・だが立派に育った後継者を失うのも比較出来ないほど辛い・・・
伊東義祐の精神(こころ)は二度目の不幸に耐えられなかった・・・
もともと禅宗にハマってたのだが、息子の死で増々のめりこむようになり、
諫言する家臣は遠ざけ、周囲をイエスマンで固めて「裸の王様」になる。
同年8月20日、政(まつりごと)への情熱を失い傷心の伊東義祐はVS島津用の桶平城を撤収してしまう。
ミリタリーバランスが崩れ伊東からの圧力が減った分、島津が息を吹き返した!
ロン様作成:島津家紋ロゴ
同年9月20日、島津軍の攻撃に大口城が落城するのだが、それは・またの話 by^-^sio