大口落城に関しては戦況の詳細は残っていない。
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「菱刈史」によると島津軍の攻撃は、永禄12(1569)年8月18日とある。
現代の論文や論考じゃないから、何を参照したか書いてないんだよ~il||li _| ̄|○ il||l
ん~~時代を感じさせる勇ましい熟語が連なってるが、要するに相良&菱刈は大口城で籠城戦になったようだ。
相良が大口に援軍を送らなかった理由は分からない。
とにかく援軍のないまま籠城すれば心も折れるし、矢玉も糧秣も尽きる。
9月20日(菱刈史では9月2日)相良&菱刈は島津に降伏開城する。
どっちが正解かは相良家文書にも残ってないので分からん(==;)
だからウィキペディアにも落城した年度しか記載がない(*´pq`)
9月18日、降伏した菱刈隆秋は甥で16代当主の鶴千代(重広)を島津へ人質として差出し,自身は相良家臣となった。
日付が前後してるから菱刈史の方が正解かな?
でも人質出すまで間が空きすぎてる気もするし~分からんわ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
改めて、菱刈隆秋は菱刈15代当主の兄弟です。
家督を継いだ重広が幼少だったために、後見人として采配を振るってました。
「菱刈史」では大口城側からの人質として相良帯刀(誰?^^;)と深水太郎左衛尉(誰なの?^^;)を、
島津側の人質として鎌田刑部左衛門(政年の子)と本田新助(氏名以外不明)を出して大口城は島津に明け渡された。
この時点では16代・菱刈鶴千代(重広)の動向は分からないが、最終的には身柄は島津へ引き渡されている。
実は「菱刈史」では、菱刈隆秋と相良義陽が大口城から出た。
って書いてるけど相良義陽とあるのは激しく間違ってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
秀吉の「九州の役」で新納忠元が降伏を拒み粘ることで知られる大口城ですが、新納が城主となるのは相良と菱刈が降伏した後から^^b
菱刈氏が降伏したので「島津の前⇒菱刈の城」とあるのが多いですが、大口城は相良領~*人 ̄▽)♪
ただ大口城の来歴は複雑でして、菱刈と相良の両属する側面もあったようだ。
とにかく、この降伏で相良家は大隅における所領を失った~><;アウチ☆
菱刈家は相良家臣系と島津家臣系に分裂するのだが「菱刈史」では(おそらく島津家臣であろう)菱刈太良が湯之尾田中に灌漑工事を施し新田開発に尽力したそうだ。
永禄13(1570)年1月5日、国衆の渋谷一族降伏。
ついに島津家が薩摩を統一する。
日本の戦は将棋に似てる。
敵BOSSを倒した後に、生き残った家臣・兵卒は自分の駒として使うからです。
薩摩・大隅の国人領主を次々倒した島津宗家。
主を失った豪族たちは島津宗家に帰属し、結果として島津宗家の動員兵力がアップする。
敵の抵抗が激しいと逆に損耗するけど、国衆の場合は玉砕するまで戦うって稀でして、
たいていは適当なとこで妥協して降伏します^^b生き残り優先ネ
4月23日に元気・・・もとい元亀に改元。
同年6月?日~関ヶ原で名を残すイケメン・島津豊久が生まれる~ヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪
同じく6月24日、相良家と島津家が、加久藤と大畑の国境で和睦の起請文を交わす。
これは義陽⇒島津への起請文だったらしい。
相良家文書によると義陽の起請文に対し、島津は7月6日に起請文を出している。
ちなみに島津義久の起請文は永禄13年になっており、まだ島津には改元の話が伝わってないのが興味深い(・∀・)ニヤニヤ
元亀元年(1570)年7月~8月にかけて、島津~相良間の往来があったらしく複数の書状が相良家文書に残っている。
3度目の正直の和睦なだけに、両家は未だ緊張状態にあったのだろう。
まだ読み下してない(´;ω;`)ウッ
とにかく伊東義祐が凹んで浮上してこないんで、相良としてもどうしようもない^^;;
戦国は元亀・天正年間が大きな分岐点となるのだが、それは・またの話 by^-^sio