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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良義陽72_木崎原の戦い1】

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さて、焦らすわけでは無いが、相良義陽が主役なんで飛ばせません~~
元亀3(1572)年3月8日~待望の嫡男・相良忠房が生まれる。
https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

正室・千代菊との間の子供は3人いるのだが、(武家的には)残念なことに全て女子だった。
義陽は止む無く側室を迎え、めでたく懐妊~~

ちなみに義陽の子供は全部で女子3人、男子3人なんだが、
どういうわけか正室が娘ばっかりで、側室が男子ばっかりと偏ってる^^;

ところで忠房クンは産まれる時に、大層な南山・・・難産だったそうな。

その話を聞きつけた相良家重臣・深水長智が「露落ちて その葉はかろき 小松原」と発句すると、
たちまち安産になり嫡男が目出度く誕生した。
ちなみに忠房クンは美少年~~( ̄ko ̄)チイサナコエデ

同年の5月4日が九州の桶狭間と呼ばれる「木崎原の戦い」です。
義陽は、この「木崎原の戦い」で島津に対し3度目の裏切りをします。

元亀1(1570)年に島津と和睦しているにも関わらず、伊東の求めに応じて援軍を出しているからです。
相良家と島津家の外交関係を振り返ると、裏切るのは常に義陽の方です。
ですが義陽本人は薩摩に領土的野心があったように感じません。

むしろ天草地方(明との交易ルート維持のため)と豊福城奪還の方に熱心でして、
阿蘇氏の甲斐宗運と相互不可侵の盟約を交わしたのも、もともとは豊福城攻略の一環でした。
(豊福城が当時は名和氏のもので、その名和氏は阿蘇氏のバックアップ受けてたから、阿蘇氏の頭越しに名和氏と諍うのはヤバかった)

武士には武を磨き、功を立て、名を揚げるための「仮想敵」が必要です。
それは近代軍隊でも変わりません(予算確保~)
でもって相良の八代衆と球磨衆にはライバル意識があったみたいです( ̄  ̄)b

地形的に間に迎烏帽子山(ノケエボシヤマ)という1302mの山と、それに連なる山々があり、21世紀の今日でも高速道である九州自動車道の八代~人吉間には23ものトンネルが存在しています。

それだけアップダウンが激しく、渓谷の険しさを併せ持っており(地図に無くてスマヌ)、
相良当主も八代と球磨を行った来たりの分割統治。
ゆえに何時の間にやら、功を競うあうようになったのでしょう。
そしてハッスルする若者たちのとっての仮想敵が島津でした。

若年(12歳)で当主になり、未だ20代前半の義陽には、浮き足だつ家臣を抑えるのは容易なことでは無かったのでしょう。
若者たちが島津ハッスルなのには、相良の同盟相手であり国衆であった菱刈家が島津と交戦状態だったせいもあると思う。

島津が薩摩・大隅統一するためには、大隅の国衆である菱刈氏を屈服させる必要があったからです。
菱刈氏は島津に敗れ、当主(子供)を人質に差出し一部は相良家臣になりました。

大口城落城に相良の若者たちは「口惜しい」「おのれ島津め」と歯噛みし「いつか目に物を見せようぞ」と気炎を上げた。
家紋・相良
ロン様作成、相良家紋ロゴ

さて「木崎原 まだぁ~~~( ̄▽ ̄)ノ_彡☆チンチンチン」という声が聞こえてきそうなんで話を戻すとしよう。

そもそもの発端は・・・・飫肥城攻略からだと1400年代になるので(爆)
直接のキッカケは、前回さら~と流した島津家15代当主・島津貴久が58歳という壮齢で亡くなったことによる。
ジーちゃんは長生きだったからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
元亀2(1571)年6月23日のことだ。

貴久が島津14代勝久の養子となって家督を継いだのは13歳のことで、もちろん自分で統治できるはずもなく。
「島津中興の祖」と謳われる貴久の実父・島津日新斎(伊作島津当主)の後見あったればこそだ。

宗家当主としての貴久の人生は順風万般ではなく、数話分かけなきゃならないほど苦労しつつ成長し、実父の日新斎と二人三脚でバラバラだった島津を一つにまとめあげ・・・・
るまでには至ってないが、とにかくその土台を築きあげた^^b
参照:◎薩州島津氏(改稿)https://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/folder/517936.html

偉大な中興の祖・日新斎ジーちゃんも鬼籍に入り(永禄11=1568年)、今度は貴久が亡くなった。

貴久は既に嫡男・義久に家督を譲っていたのだが、貴久が島津家の大黒柱&精神的支柱であることに変わりはない。
後に「人格で統治した名君」と言われる4兄弟の長兄・義久の当主オーラに、家臣たちは未だ気づいてはおらず、
人々は「島津は昔のように再びバラバラ(分家がまとまらない)になるのではないか」
と噂しあった。

打倒・島津が目標だった日向の伊東義祐も「さもありなん」と考えた。

永禄12(1569)年に期待の後継者・義益を病で失い、すっかり意気消沈していた義祐だったが、亡き義益の忘れ形見が、日々成長する姿に気持ちプチ復活。

「ワシの目の黒いうちに可愛い嫡孫に家督を譲りたいぉ」(何となく元就ジーちゃんと被る)

ちなみに日向をほぼ手中にした伊東義祐だが、いわゆる「国持ち大名」ではない。
大義名分としても守護職(日向守護職は島津氏)ではないし、
物理的にも島津が日向・真幸院にある飯野城に踏みとどまっていたからです。

飯野城を守っているのが猛将・島津義弘(* ̄・ ̄*)Vブイ
家紋・島津
ロン様作成、島津家紋ロゴ

でもって島津貴久の死をキッカケに大隅の国衆・肝属氏が島津領に侵攻を始めた。
(島津貴久の代で手中にしたのは西大隅までです)

伊東義祐「チャ~~~~~~~ンス」
さっそく相良義陽へ手紙_φ( ̄ー ̄ )メモメモ「島津を倒すから援軍ちょーだい」

義陽は伊東義祐の求めに応じた。

この3度に渡る裏切りを島津は忘れなかった。
後に水俣城落城の時に島津家は相良家を信用せず、二度と翻意しないようにと多くの相良領地を割譲させ、
さらに島津の家老たちがこぞって起請文を書き、何と100通以上にも及んだそうだが、それは・またの話 by^-^sio

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