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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良義陽72_木崎原の戦い2_愛しのハニー】

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さて、元亀1(1570)年前後から相良関係に関する資料が、ガタ減りします。
従って木崎原の戦いに関する記述も薄い。
もしかして島津に遠慮して、書いていたものを後年に処分したかも・・・というのは穿ちすぎだろうか。
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何せ「木崎原の戦い」は「島津マンセー・義弘age」が凄い。
だいたい「九州の桶狭間」って比喩が褒めすぎ^^;

島津軍が兵300で、兵3000の伊東軍を破るのは立派なのだが、
双方の損耗率は伊東軍は810人で27%、島津軍は257人で約86%にも及び、
鮮やかな奇襲作戦成功を収めた「桶狭間」というよりは「窮鼠猫を噛んで~」的なノリ。

まぁ伊東軍の総大将を討ち取ってるし、
伊東家の直接の没落の要因(各家の当主or後継者=部隊指揮官を失った)だから、
大きく間違ってはないけど・・・・・・ねぇ(*´艸`)プププ

それと伊東軍が3000というのも、あくまで有力説で確定的ではない。
そんな感じで史実検証っていうのは難しいので、困った時の逸話ベースで行きます^^

[女間者(スパイ)の暗躍]~って書いてて恥ずかしい イヤン(/▽*\)
とにかく飯野の島津義弘は、少数で伊東軍の侵攻を迎え撃たねばならないため、
伊東軍の力を分散させるべく様々な謀を巡らしたと言われ、間者(スパイ)も多用したらしい。

以下はネット最大の逸話ブログ「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」からの引用で、解りづらいとこは管理人補正してます。

「木崎原の戦い」が起こる前、伊東家は島津義弘の飯野城を落とすべく、度々真幸院(飯野地区は真幸院の一部)へ進出していた。
「木崎原の戦い」の五ヶ月前も伊東軍は真幸院へと進出し民家を焼くなど挑発行為をしていたのであるが その日の晩、一人の女が迷い込んできた。

伊東軍が女を連れてきて話を聞くと、女は飯野城の西、義弘の妻子が住まう加久藤(かくとう)城の女中であるという。
女中はとある武士と不義密通を重ねていたのであるが遂に事が露呈してしまい、いよいよ明日罰せられることになっていた。
しかし、義弘の妻である実窓院がこれを哀れに思い、自身の住まう部屋に通じる「鑰掛口」よりそっと逃がしてくれたという。

女中は相良領へと逃げようと思ったが加久藤の峠は山深い上に険しく、心細くなってこの伊東軍の陣にやってきたという。
伊東軍はこの女中を不憫に思い、VS島津用の防衛拠点である三ツ山城へと連れて行って、そこの女中として雇った。
そして女中から島津家の内情を問いただしたのである。

女中曰く「加久藤城には義弘の妻子ら50名ほどの兵しかおらず、また自身が逃げてきた鑰掛口は攻められると脆い」と教えた。
伊東軍はこれを信じ元亀3年5月4日の未明、飯野城の先にある加久藤城の鑰掛口を攻めるべく進軍した。
しかしそこは狭い隘路で、また鑰掛口は絶壁でいくら攻撃してもビクともしなかった。

実は鑰掛口とは、その名の通り鉤を掛けて登らなくては通れないというほどの入口だったのである。
そしてこの女中、実は義弘が遣わした間者(スパイ)だった。
まんまと騙された伊東軍は疲労困憊、已む無く兵を引いた先で暑さから水浴びをして沢山の将兵が討たれたのは史実の通り。

「木崎原の戦い」は伊東側の記録だと「覚頭(加久藤)合戦」とあり、伊東軍の目的は島津義弘の妻子がいる加久藤城だった。

島津義弘は、加久藤城に伊東軍が攻撃してくるように、上記の女スパイを使ったり(マジ?)
加久藤城へ、愛しのハニー実窓夫人と大事な嫡男・鶴寿丸(後に早逝)クンを囮として入れ、城の警備も手薄にしていたそうだ。

ほんとに兵力不足だったかもだけど^^;

いかに義弘が熱愛してるとはいえ、妻だけでは囮としては弱い、大切な跡取り込みだったので伊東軍は誘い出された。

ちなみに鶴寿丸は実窓夫人の子供ではなく、生母は義弘の最初の妻・北郷(ほんごう、島津分家)夫人説と、
2度目の妻・亀徳姫様(相良義陽の異母妹)の二説あって判然としない。

2度目の亀徳姫様が相良と島津の和睦破綻で離縁され、実家である相良家に戻り(異説が加治木に残る)
後年、不遇(餓死した)に死んだのを義弘は知っていたのかどうか・・・( ̄  ̄)トオイメ。。


さて、3度目の妻・実窓夫人は島津家臣・園田氏の娘なのだが、あんまり家格が良くなかったらしい。
義弘に嫁ぐ前に広瀬氏の養女になっている。

兄で当主の義久が生来病弱な上に子供も娘だけで、その娘は分家との絆を深めるために使用済マーク。
そのため島津家御曹司たちの中で「政略結婚部門担当」が、次男の義弘だった(3男・4男(庶子)では他家の姫君と釣り合わない) 

だが義弘は二度の政略結婚破綻で精神的にブチ切れた(らしい)
当然3度目も、どこぞの姫と政略結婚~と言う家中の空気に逆らい、一目ぼれした実窓夫人と恋愛結婚^^

「朝鮮の役」で義弘(60代)は
「昨夜は君の夢を見たよ。いま初めて会ったようだ(それくらい夢の中でトキメキドキュン)」
とラテン男のような熱烈ラブレターを送っている。

上記の逸話ブログによると、義弘が実窓夫人にかけた最初の言葉は「その大根を所望したい」だったらしい。
(夫人は家の前で大根を洗ってた⇒女中を使ってないので、家格は自ずと・・・)

身なりを見て「どこぞの貴公子」と思った実窓夫人は菅笠を取り、
被る方ではなく上の部分を凹ませ、そこに大根を乗せ義弘に差し出した。

「被る方にしなかったのは失礼だと思ったのよ」by実窓夫人。

その機転と優しさと身のこなしの挙措動作に、猛将・島津義弘は一目惚れしたそうなのだ。
島津義弘には1番目妻~2番目妻の間くらいに「あかし(明石?)という側室がいた」という話がある。
でもって「あかし=実窓夫人」説があり、もしかしたら彼女は側室から正室に格上げになったかもなんです。

鎌倉以来の名門・守護職の家柄では(身分的に)アリエナイ嫁で、当初の風当たりの強さは現代人の我々に想像も出来ない辛さだろう。
だが実窓夫人は「木崎原の戦い」で危険な囮役を引き受けたことで、「賢婦人」として家中の信望をゲッツ。
16代当主である義久の厚い信頼をも勝ち取り、島津義弘の正室としての地位を揺るぎ無いものにするのだが、

それは・またの話 by^-^sio

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