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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良義陽80_降伏 ・前編】

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職場が9日からなんで余裕あるんです~
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相良と島津の外交は和睦と破綻を繰り返した。

1度目
北郷・島津・相良の三国間同盟⇒相良が裏切り伊東と組んで、島津サイドの城を攻撃
この頃の義陽は本格的なVS島津に踏み切れなかったようで、言い訳の使者を島津へ派遣している。
だが交渉は失敗に終わり、完全にドタマに来た島津による大口城攻撃が始まる。

2度目
島津と相良の和睦⇒相良が島津家の使者を殺して破綻。
ドタマに来た島津義久が以下略~

3度目の正直
「木崎原の戦い」で相良が伊東の要請に応じて援軍派遣したため破綻~

何があっても4度目の和睦
これは仲介の元関白・近衛前久の顔を立てるためで、双方守る気ゼロ~

八代・球磨・芦北3郡~南肥後一帯を治める相良家が潰されれば、肥後全体への影響は計り知れない。
(実際、島津による肥後平定へと歴史が動いた)

肥後の国人にしたって「亭主(後ろ盾の島津)元気で、留守が(肥後に来ないで)いい」が理想。
ましてや龍造寺にしてみれば、島津と本格的にブツかる前に時間的猶予(vs島津のワンクッション相良)が欲しい。

天正9(1581)年5月、龍造寺家と肥後国人・名和家から島津へ「相良捨てられまじく懇望」と書状が出されている。
名和氏は相良と豊福城の領有を巡って争ってただけに、領地が相良に近接している。
それだけに、既に島津へ帰服していたとはいえ、相良が潰れた後の余波が怖いのは当然だろう。

が、期待虚しく島津による水俣城攻撃が始まった。

水俣城降伏の時期が島津8月20日、相良9月27日。
と、ひと月違うのだが、使う暦が違うだけで実は同じ時期を指してるかもしれん。
じゃあ何月?というと謎なわけで、ここは相良編なので相良の記録9月で。

はっきりしてるのは「水俣城の降伏開城は義陽降伏後」ということです
主家が降伏したのを知らずに、抵抗続けてた忍城(小田原の役ネ)を思い出した^^

肥後国人は次々島津サイドになり、ピンチはピンチの相良なんだが、同盟国の阿蘇は島津に従うつもりはサラサラ無い。
極端な話、満身創痍となっても相良が抵抗を続けてれば、いずれ龍造寺が南下してくるので降伏せずに済んだかもしれないんです。

だが現実問題として、そんなボロボロになるまで相良家中が一致団結出来るか?となると怪しい^^;
傷が浅いうちに降伏・・・というのは恥でも卑怯でもなく、多数の家臣・一族を束ねる者としては妥当な判断だと思う。

というか、過去の経緯を見てると義陽は機会を窺って「また島津を裏切る」つもりだったんじゃないだろうか。

自分は降伏前・降伏後かはともかくとして、甲斐宗運と相良義陽の間で密約が成立してたと考えてます。
少なくとも「そう仮定すると」自分が抱いていた「義陽最期の行動」に対し納得できるんです。

実は、阿蘇惟将から義陽へ8月28日付けの書状が送られており、それには「油断無きよう」と記されている。

それはさておき、以前話した龍造寺・島津両軍対峙だが、
「北肥戦誌(肥前2次史料)」と「上井覚兼日記(島津一次史料)」を比較すると天正11(1583)年が一番自然なようだ。

上井覚兼日記に和睦の話が出るのが同年3月で記述が無くなるのが同年10月。
従って10月に和睦が整ったのだろう。
仲介が秋月種実なのは、どっちも一緒^^/

北肥戦誌では高瀬川を島津と龍造寺の国境にしたとある。
現在の熊本県玉名市なのだが、高瀬川でなく高瀬津ではないだろうか?

菊池川には高瀬津という豊かな交易港があった。
地理的に可能か自分が道産子で地元じゃないんで怪しいが、美味しい土地を分割統治するのは大内と少弐の博多の例がある。

では自分が勘違いした天正9(1581)年に龍造寺の動きがなかったのか?
というと、実はあった。
北肥戦誌によると、龍造寺は阿蘇、阿蘇家老・甲斐、相良の要請で天正9年9月に援軍を出している。
兵数は記載なし。派遣されたのは龍造寺家晴(隆信の従弟の息子)
そして援軍は阿蘇の御船までしか来なかった!ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

疑り深い龍造寺隆信は、何度も島津との和睦を裏切る相良義陽を信用してなかったのだ。
この出来事は義陽の心が折れるのに十分だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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