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【相良義陽82_密約 】

義陽が死を覚悟して出陣したのは間違いないだろう。
だが、その動機が甲斐宗運との友情・盟約を破ったことに対する呵責から・・・
という俗説が、どうにも腑に落ちない~(* ̄* ̄*)
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「うちのことは3度も裏切ってるくせに、甲斐宗運だと1度の裏切りで死ぬほど思いつめるなんて失礼すぎ」byシーマンズ一同

戦国大名の当主とは、そんな甘ったれたセンチメンタルボーイでは務まらないはずだ。
結局は相良義陽という人物を理解するために、阿蘇家・甲斐家の歴史込みで永正年間まで遡り調べた管理人考察↓

相良義陽が死を決意したのは、甲斐との友情ではなく、相良家が生き残るためのはずだ
エエエエ~数え10歳の嫡男・忠房を残して死ぬなんて変~と思う方、まず話を聞いて下され(* ̄∇ ̄*)

『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。

その説を採択する。

そして義陽は「自分が出陣しているが、ガチ本気で攻撃してくれ」と宗運に伝えているはずだ。
もっとも宗運は「主君・阿蘇氏のためなら息子を殺す男」だ、義陽の申し出が無くても戦になれば遠慮しなさそうだ( ̄ー ̄A 汗フキフキ

義陽の章で繰り返しているが、相良は3度も島津を裏切っている。
島津を誘き寄せるには、相良の裏切りを警戒する島津を油断させる必要があり、そのために義陽は自らを囮としたのではないだろうか?
なぜなら相良義陽は「最前線に出たことの無い大将」で「響野原の戦い」が「唯一の特例」なんです。
真に誘い出したいのは島津当主・義久ただ一人<( ̄^ ̄)/ビシ★
次男や従兄弟なんぞ雑魚!義久が来なければ密約は失敗~義陽は戦場で死ぬ覚悟だった。

裏切るなら必ず島津義久の首をとらねばならない。
なぜなら仕損じれば(義久が来なければ)人質として差し出された嫡男・忠房と次男・頼房が、報復として殺されかねないからだ。

ウィキペディアでは、島津が相良へ人質を返した、とあるのだが実は相良側にそのような記録が無い。
でもって島津側も知名度ある資料には、そのような記述がなく、よほどコアな資料が出典か間違いの可能性が高い。
で、人質の嫡男と次男を預かっているのが、分家筆頭・島津義虎の出水城だ。

相良も御家騒動が多いが、島津も家督・宗家の座を狙って一族内が血のシャワー^^;
なまじ守護職の家柄なだけに、島津の内紛は常に周囲を巻き込む大騒ぎになる。

その島津を一つにする土台を作ったのが、伊作島津の忠良と息子で15代目の貴久だ。
貴久の息子たち・・・島津4兄弟という素晴らしい推進力を得て、島津は三州統一⇒九州統一への歩みを始めている。

その分家・家臣の全てを束ねる「扇の要が島津義久」で、その義久を失えば島津家は必ず内紛になる。
なぜなら島津義久には未だ嫡男がおらず、娘が3人しかいないからです。
「島津は、ちょいとツツけば、即揉める家だぎゃぁ」by某太閤

義久の娘のうち長女・御平は出水薩州家・島津義虎に嫁ぎ、
次女・新城は又従兄弟の島津彰久(後の垂水島津家の祖)と結婚。
末娘・亀寿は、まだ数え10歳で未婚。

亀寿に婿養子をとらせるとすれば婿候補で揉めるし、分家の誰かが「どれワシが」と出張れば揉める。
で、出張りそうな分家が(過去の経緯から)島津義虎の薩州家だ。

義陽は島津に内紛が起きれば、薩州家に交渉し息子たちを取り戻すのは可能・・と判断したことだろう。

若年では戦国大名の当主は務まらない。
必ず強力な後見人が必要で、それは義陽自身が一番、身に染みている。

自分の死後、まだ10歳の忠房が残れば相良家にも内紛が起きるだろう。
だが島津という傘の中にいれば心配はいらない。

島津義久は必ず忠房の味方になる。
それは義陽が島津の為に前線で死ぬから・・・という感傷的な理由ではない。
IF:義陽亡きあと相良に内紛が起きれば、島津義久は年少の当主後見人として介入することが出来る。
内紛に裁断を下し「公儀権行使」の既成事実をもって、相良家を島津家臣に組み入れるチャンスだからです。

戦国時代・父や兄が戦死し若年で当主になる例はゴマンとある。
「一族の当主」であれば若年では揉めるが「家臣の家の当主」となれば話は別だ。

島津義久の袖の中で家臣として庇護を受ければ、相良の当主は若年でも不都合はない。
「うちの嫡男は美少年の愛されキャラなんです」by義陽

つまり義陽の戦死の覚悟は、相良家が島津家臣にならざるを得なかった場合の布石。
また直参から陪臣になるなんて真っ平御免~という相良家臣は必ずいる。

介入したい島津と、介入されたくない相良家との間で、綱引き・駆け引きがあるだろうが、
そこまでは義陽の関知するところではないし、それで相良家が独立した勢力として残れればラッキー。
いずれにせよ武家としての相良の家名は残すことができるだろう。

一度降伏し領地を割譲した以上、もはや島津とは対等の外交関係は望めないのだ。
礼節を重んじる島津義久は、義陽を決して粗略にはしないだろう。

だが近い将来、甲斐宗運や阿蘇が討たれた時「イザ首実検」になれば、中心として床几に座るのは義陽ではなく島津義久。

下手をすれば前線の総大将は義久ですらなく、無位無官の島津家臣の脇に[従4位下修理大夫]の義陽が控えねばならないのだ。
そんな滑稽さに耐え忍んで生きるには,義陽はプライドが高すぎたかもしれない。

甲斐との密約が不発に終わっても、義陽が戦死すれば今度こそ島津は「相良の誠意」を疑わないだろう。
義陽の中の小さな慰めは、戦死すれば「島津義久の下座に伺候する相良当主が自分では無い」ということ。
さらに「そのような嫡男の姿を見ずに済みそうだ」ということだ。

天正9(1581)年12月・・・義陽は島津からの再三の求めに応じ、甲斐家との戦に出陣するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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