これは欠点と言うのは酷かもしれない・・・
以前に、義陽のマイ年表から感じるのは「孤独」「文治派タイプ」と記したのだが、
もう一つ、義陽には致命的に欠けているものがある・・・
それは野心、ギラギラした動物的な本能だ。
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相良義陽は、領土欲が欠落しているか、その欲望が薄い。
VS島津でも、せっかく裏切り、せっかく伊東と手を組んだのに、何か煮え切らない歯切れの悪さを感じる。
これはやはり義陽の気性もあるんじゃなかろうか・・・と愚考してみた^^
相良家の全盛期の基盤は、16代義滋(義陽の義祖父)と上村頼興(実祖父)が築いた。
義陽は名君の誉れ高い17代晴広(16代の養子で上村頼興長男)が、30過ぎてから儲けた子供だ。
そのため「(16代から数えて)典型的な3代目」である義陽は、創業の苦労を肌身で感じたことが無い。
確かに父の病死で若年で当主になったプレッシャーは、余人には計り知れないものがある。
だが反面、物心つくころ既に相良家は「芦北・八代・球磨」3群を領する南肥後の支配者だった。
さらに天草諸島も影響下にあり、明との交易で財政は豊か、軍資金調達の苦労を感じたことが果たしてあったかどうか・・・
そんなバブル坊ちゃんだった義陽が、ホントにマジで超崖っぷちな岐路にブチ当たったのが「島津への降伏」だった。
義陽は本気で島津に恭順する気は無かったと思う。
「従四位下」「修理大夫」の官位を拝領した義陽が、島津義久に膝を屈するのは耐えられないだろう。
(島津義久も修理大夫だったが、さらに天正9(1581)年に義陽と同格の「従四位下」になっている)
和睦だ和議じゃと言葉を綺麗に飾ったところで、中身は屈辱的な降伏。
これからは島津の要求する軍役に応じなければならない身で(嫡男・次男が人質では従わざるを得ない)
このまま島津が膨張を続けて行けば、いずれ相良家は島津家臣団の中に組み入れられてしまう。
相良家が本当の意味で「独立した勢力」として残るために島津を倒し、
往時の勢威を取り戻すためには、奪われた芦北と天草(の一部、長島)を取り戻さなくてはならないのだ。
義陽は「名君ダディ」や「汚れ仕事お任せ有能ダーク祖父」や「土台を作った義祖父であり舅(正室は義祖父の末娘)」に対し、コンプレックスがあったと思う。
彼らの名跡を汚す(領地を失う)ことを、何よりも恐れていたんじゃないだろうか。
(耳タコで活躍を聞かされてたはず)
自分の代で、偉大な祖父・父が作り上げた相良家の領地を寸土も減らすわけにはいかない。
義陽が国人だったら・・・なりふり構わず自分が生き残ることを優先するだろうに・・・

(幸麿さま作成:相良義陽画像)
義陽は個性が強い肥後もっこすを束ねるには、優しすぎたのかもしれない。
水俣城が落ちる前年の天正8(1580)年に、VS島津の城である朴河内(ほうこうち)城が落城している。
朴河内城は、その前年・天正7(1579)年にも島津から攻撃を受け、驚いた城主の東頼兼・頼一親子は城も兵も家族まで置き捨て遁走していた。
天正7年遁走~天正8年落城という連続失態に、東頼兼・頼一親子は恥じて山中に謹慎していた。
義陽は東親子を呼び寄せ謹慎を解くだけでなく、岡本地頭に抜擢している。
この人事に相良家の複雑さが如実に出ている。
土台を作った16代義滋とコンビネーションだった上村頼興。
特に上村頼興は、16代と17代の治世を盤石なものにするため、次々と邪魔者を排除した。
その中には上村頼興の実弟すら入っていたほどだ。
で、その邪魔者リストの中に東頼兼の父・岡本頼春がいたんです。
岡本頼春は上村頼興の従兄弟で義兄にあたり、まさに一族内で血煙状態 ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
謀殺された岡本頼春は暗殺の際に「上村家の断絶を予言」して死んだが、息子の東頼兼は当時15歳という若さだったので難を免れた。
言霊が力を持つと信じられた時代、岡本の今わの際の科白は立派な呪詛。
祟りを恐れた・・・ばかりでなく将来の禍根を取り除くために、東頼兼は成人後に朴河内城主に配置されたんです。
相良家「VS島津の要衝地に置くんだからネ、信用してるって証だよヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」
てことで、そもそも武将としての能力を基準に選定されたものじゃ無さそう( ̄ー ̄A 汗フキフキ
上村頼興の強引な手段は、肥後もっこすを束ねるには、止むを得ないものなのだが、やはり禍根は残った。
義陽は「VS島津」という大事にあたらねばならないのに、謀反されないように配慮した人事をしなければならなかった。
相良家の外交が中途半端なのは、家臣の謀反を恐れた側面も大きい。
何せ水俣城で活躍した犬童頼安ですら、過去に「謀反⇒出奔⇒帰参」の黒歴史があるのだ。
このあたり謀反ラッシュな大友家と規模は違うが似ている。
だが祖父・上村頼興なら、不和の種になりそうな者は、サクっと排除したんじゃないだろうか。
活かして優遇する義陽のやり方は、犬童のような有能であれば相良の益となるが、東頼兼のような若干アレであれば相良家の足を引っ張ってしまう。
このあたりの匙加減は難しい・・・正解など無いかもしれない。
ただ「生き残った歴史」だけを評価するなら、義陽流も必要な流れと言えるかもしれない。
岡本は謀殺された岡本頼春の領地だった。
失態は咎められず、亡き父の旧領に地頭として復活したのだ、東頼兼・頼一親子に不満などあろうはずがない。
島津を倒す・・・という目的のためには、家臣に謀反なぞ起こされては困る。
「大事の前の小事」・・・義陽は不和の芽を静かに摘んだ・・・それは・またの話 by^-^sio