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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良義陽83_鳴呼・響野原、前篇 】

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甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。
上記の資料を典拠に話を進めていることを予めご了承下さいm(_ _)m
相良側資料は『南藤蔓綿録』です。
https://history.blogmura.com/his_sengoku/ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代

天正9年(1581)12月2日(1日という説有り)・寅の刻(午前4時)、まず義陽の旗本衆800が八代から出陣。
義陽は白木妙見社で宗運と交わした相互不可侵の誓紙を焼き捨てさせ、自身の討死にを神前に願った、とされている。

その白木妙見社に詣でた際、義陽は18、19歳くらいの女性が、機織の巻棒を脇に抱えながら血を吐く幻を見たという。
それだけではない。
妙見社から立つ際に、旗幟が木に巻きつき取れなくなってしまった。
家臣・東左京との合流の刻限が迫っていた為、義陽は旗幟を引きちぎって先を急ごうとした。

出陣前に続く妖しい出来事に家臣らは「こたびの出兵は不吉である」と述べたのだが、
義陽は最初から討死にを望んでいるため「佳運神慮に通じて念願疑いなし」と進軍を命じた。
************************************************

・・・・(T^T)義陽の懊悩が、いかばかりのもだったか察するに余りある逸話だ。
宗運との友情破綻・・・なんて相良家存亡の一大事に比べれば、些末な事だ。
島津家に降伏した瞬間から、義陽の短い晩年の苦悩が始まった。

皆さん・・・考えてみてください。そして想像して下さい。

嫡男と次男が人質となっている以上、義陽は島津の要求する軍役を拒否できない。
(※島津が相良に人質返還したというウィキペディアの記述は、相良側資料に無いものです)

今は甲斐宗運との戦いだが、その先には甲斐の主家・阿蘇氏、肥前の龍造寺、さらに豊後の大友との戦いが待っている。
島津の膨張スピードだと、それらの勢力と否応なく激突するのは、戦国時代なら幼子でも理解できることだ。

もし島津から「先陣の功績を寿ぐ」として「領地を拝領または安堵」したら、その瞬間に相良家は島津家の家臣となるのを承知したことになるんです。
相良家が独立した戦国大名としての矜持を保ちたいのなら、島津から一石たりとも恩賞を貰う事は出来ない。
島津が相良を潰したいと思えば、戦のたびに先陣を命じればいい。
自腹を切って戦い続ければ相良家はボロボロ・・・それまで蓄えた財産も底を付く。
島津の先陣を務める限り、相良家臣が手柄を立てても義陽が手にする領地は無いのだ。

義陽自身の蔵入地を削って与えるのにも限界があるので、いずれ家臣に恩賞(領地)を与える事が出来なくなってしまう。
ていうより、そうなる・・・って気配を感じた時点で、相良家臣団はバラバラになるだろう。
忠義にも限界がある・・・無休・無給で奉仕するような一途家臣は特殊例なんです。

島津に降伏した相良家には2つの道しかない。
1)島津の先陣を恭しく務め、なし崩しの家臣コース
2)艱難辛苦も七難八苦もバッチコーイ!あくまでも独立した戦国大名として踏ん張るぜ
義陽は最初、2のつもりでいたと思う。

いつもの如く?適当なとこで島津を裏切り、割譲した葦北を取り戻す未来予想図(* ̄・ ̄*)Vブイ
ところが「常習・相良裏切り」を警戒した島津義久に、嫡男、次男を人質にとられた~><;アウチ☆

島津のために、せっせと働くなんてヤッテらんない~~~
でも人質・・・あぅ~~_| ̄|○ il||li がくぅ
毎夜このループが脳内を駆け巡り、人知れず臥所の中でのた打ち回った結果、
思いついたのが前回記事にした甲斐宗運との密約なのではないか。

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義陽は不吉な出来事に忠言した家臣を退けて進軍を続け、響野原に布陣した。
それに対し家臣は「娑婆峰に布陣すべき」と具申する。
だが義陽は「まことに不用心であるな。だが可能な限り御船城近くに布陣したい」と述べて布陣を慣行した。

一方、別部隊の東左京進の勢1000は堅志田城下を焼き、出てきた堅志田城兵を退けた後、義陽の布陣する響野原へ合流。
陣中見舞いとして、宇土城にいた鎌田政年(島津家臣)と、豊福城代の東駄左衛門(相良家臣)から酒食が届いたので義陽はそれを皆に分けさせたそうです。

義陽の布陣を斥候の報告で聞いた宗運は
「それは義陽の陣とは思えぬ、彼ならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはず」と云ったそうだ。

宗運と義陽の間に「島津義久を誘きだせたら鬼沙川の手前に布陣」「ダメだったら、そこ以外の場所」という符牒が出来てたんじゃなかろーか、と推測^^b

さらに大胆に推測すると「義陽は島津を誘き出せなければ自分を討って欲しい」と甲斐に依頼してたんじゃないだろうか?
だってね、どんなに屁理屈を並べても死ぬために出陣なんて、一族家臣郎党を率いる戦国大名の当主としては余りにも無責任でしょ。

前回述べたように、義陽の死後は島津義久が嫡男・忠房を庇護するだろう、という予測は容易です。
なぜなら島津にとっては、若年当主の後見人であることを理由に、相良家を薬籠中に入れ家臣化するチャンスだからです。

どうしても義陽自身が島津義久の風下に立つのがイヤなら、隠居するという武家社会にはナイスな処世術がある。
38歳隠居はチト若すぎだが「恭順のア・カ・シヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪」って白ばっくればいい。

ホントに再起を図りたいなら、トットと戦線離脱すりゃいいのに「いいの、此処で死ぬの*人 ̄▽)♪」と動きゃしない。
失敗した時は「死ぬ」の一択しか無いのは、やはり義陽の性格で、
島津に降伏した時に心の何かが折れたんじゃないだろうか( ̄  ̄)トオイメ。。 

若年で当主になり、間もなく後見の祖父が死に、哀しみが癒える間もなく叔父が謀反起こした。
さらに二十歳になる前に相良家最大の内乱「獺野原(うそのばる)の戦い」に対処しなければならない。

内乱の危険を常に孕む相良家中に、義陽は神経をすり減らし気を使い続ける余り、
いつの間にか我侭を言わない言えない、江戸期の殿様みたいになったんじゃないだろうか。

隠居もしない、生きながらえることもしない、自分の死に方と死に場所だけは誰にも遠慮したくない自分が決める。
響野原で甲斐軍に討たれて死ぬのは、周囲に気を使い続けた義陽が生まれて初めて、そして最期の我侭だったのだろう。
あぁ・・・こういうのって、やっぱ切ない。゜゜(´□`。)°゜。
それは・またの話 by^-^sio

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