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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【相良義陽83_鳴呼・響野原、後篇 】

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相良義陽が響野原で討死したのは、通説によると「(相互不可侵盟約を破った事に悩んで)甲斐宗運との友情からだ」と云う「センチメンタル説」になっている。
それに管理人は「島津の下風になるのが何としてもイヤ」だった「武士の意地説」を付加した。
(自分の死後、嫡男、次男は人質として島津の庇護下にあれば、相良で内乱あっても逆に安全)
だが、それらの全てが表向きの理由で、義陽が世間から「そう思われる」ように仕向けたものだ、としたらどうだろう?
義陽の死に様は「甲斐宗運に討たれる」ものでなければならなかったのだ。
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甲斐氏の史書『響之原合戦覚書』によると、
「義陽の出兵は偽装であり、甲斐氏、阿蘇氏と謀り島津軍を引き入れ逆にこれを討つ」
という密約があったとされる。
自分推理は上記史料が前提~ちなみに相良側資料は『南藤蔓綿録』。
人物・相良義陽
(今日が見納め?相良義陽画像~)

この戦いで島津は相良の後詰として出陣するはずだったそうだ。
ところが上記密約を連歌師が察知し、島津に「陰謀あり」と知らせたために出陣を取りやめたそうだ。

過去に3度も裏切った相良の降伏を島津は疑い、嫡男、次男を人質にとった。
そんな島津を誘き出すために義陽自らが囮となったのに、島津は出陣をとりやめたのだ。

島津は見ている・・・壁 |・ ̄)じー・・・相良の降伏が本心なのかどうかを・・・!

義陽が戦から無事に生還したら、島津は「相良は本気で戦わず甲斐と慣れあったのでは?」と疑念を抱くだろう。
自害切腹・・・周囲の家臣が全力で止めるだろうから実行が難しいし、タイミングが変だと島津が疑ったままになるかも~

島津の疑念を解くには、
「甲斐と阿蘇に対し明確な敵対行為をする」
「義陽自身が甲斐との戦で討たれる」この二つを実行するしかない。

義陽は甲斐との密約を糊塗するため、自分の行動が不自然に見えないように「島津の求めに渋って、悩んでいる」アピール。
「律儀に甲斐との盟約書を燃やす」
(これは演技というより、この時代の神仏への懼れからだろう)
「神社に自分の死を祈願」
(こっちは本心だから神仏にウソついたことにはならない)
「女の幻 見たぉ( ̄  ̄)トオイメ。。 」鬱欝アピール。

義陽が「深い懊悩の果てに甲斐軍に討たれて死んだ」となれば、もはや島津は相良への疑念は忘れるだろう。
島津にとっては、義陽の死後に相良家中が分裂し南肥後がカオスになる方が困るから、義陽への疑いを掘り返す事はしないはずだ。

甲斐との盟約破綻の敵対行為。
別部隊の東左京進の勢1000が、阿蘇氏の支城・堅志田城下を焼き、出てきた堅志田城兵を退けた。
堅志田城兵側に被害が出る。
その後、別部隊の東左京進と義陽は響野原で合流した。
天正9(1581)年12月2日
響野原は濃霧に包まれ、四方から甲斐勢500が攻撃、元々守りに向かない地の上に濃霧だったので相良勢は壊滅。
義陽は退却を勧める家臣の言を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺された。享年38歳。
それを知った東左京進も、敵に突撃し討死する。

島津を誘い出せなければ、自分のことは敵として遠慮なく討ってくれ、その代わり密約の事はワシが墓の中へ持って行く!・・・
義陽は予め、そう甲斐に頼んいでたのでは無いだろうか。

義陽を斬り倒した甲斐兵は、義陽の首を取るのが忍びず、別の者が首を落としたそうだ。

密約を知っていたか、或いは察していた者だったのだろうか・・・

義陽の首を見た宗運はかつての盟友の死に落涙した・・と言われる。
主家のためなら子供を犠牲にする情の強い男が、阿蘇と自分を裏切った男の首を見て落涙したのだ。
しかも相良家は阿蘇筆頭家老・甲斐宗運に対し明確な敵対行為をしている。

常の甲斐宗運なら義陽の裏切りに怒りこそすれ、泣くほど嘆くだろうか?
それは「戦死」という死に様を選んだ義陽の心情を、事前に知っていたからではないか。

宗運は「これで島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった。阿蘇家も後数年の命脈であろう」と述べたとされる。
甲斐宗運は「相良家が島津に降伏した時」ではなく「義陽が死んだ時」をもって「島津氏の侵攻を防げるものがいなくなった」と発言しているんです。
相良の島津降伏後も「宗運と義陽の盟約」は生きていて、両者の密約を裏付けることにならないだろうか。

義陽の首級は宗運の首実験の後、相良家臣・東駄左衛門(豊福城代)が返還を要求して返されたとも、
義陽が討ち死にした場所の近くにあった大石の上に置かれて返されたとも記述されています。

みなさま管理人提供の「相良義陽像」は御堪能いただけたでしょうか?
これは自分が集めた資料や、監修様所持の貴重な文献から情報提供頂いた資料を元に、管理人が構築した「語り」ですので、その辺はお含みおきください^-^

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