さて、世代交代に伴い犬童頼安の名を休矣(きゅうい)に改めます~~~(O ̄∀ ̄)ノ
意味は聞かないで_| ̄|○ il||li ・・・なんか中国の言葉からとったみたいです。
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剃髪(ていはつ=スキンヘッド)して休矣と改名した犬童ですが、出家も隠居もしたわけではありません。
亡き主君・相良義陽の喪に服し、その菩提を弔うための剃髪で、在俗(寺へ入らず俗世間にいること)のまま。
嫡男・頼兄(よりえ)と休矣の通称は同じ軍七なので、剃髪した時に通称を嫡男に譲ったと思われます。
男子は頼兄一人で、他に娘(頼兄の姉か妹)がいたようですが詳細は不明。
頼兄に家督を譲った時期も不明ですが、一つの目安として武家の子弟が家督を継ぐのは二十歳頃だそうです。
休矣が隠居(現役引退)した時期も不明です^^;
剃髪後も休矣は、島津配下として相良家臣を率いて各地を転戦してたし(主君・頼房も同行)、
奉行職も引き続き務め、休矣・頼兄の親子鷹が若き主君・頼房を支えたのです。
が、親子鷹は過去にもう一組ありました。
もう一組みの親子鷹・・・それは深水頼金(ダディ)・宗芳(ジュニア)です。
これにはちと説明がいりますね^-^
かつて相良家臣だった八代衆(現在・加藤清正配下)は、純然たる相良家臣ではなく元は在地の豪族たちでした。
そのためか、八代奉行も世襲職(地縁・縁故関係重視)だったんです。
いっぽう球磨(人吉)奉行は選定基準は解りませんが、世襲でないのは歴代奉行の名前がバラバラな事で解ります。
推薦?自薦?他薦?・・・とにかくそんな球磨奉行の中で「親子で奉行」がいるということは、
親子そろって優秀・有能ってことで、それだけに奉行衆の中で主導権を握る「勢力」があるってことです。
ジュニア長智が先々々代(つまり晴広)の13回忌に、休矣みたいに剃髪して宗芳になってるんで盲点なんだけど、ダディ深水頼金はピンピンしてるし隠居もしてないし~~~∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
現当主・頼房の兄、忠房の代の時も奉行で、頼金・宗芳は親子で奉行~(* ̄・ ̄*)Vブイ
(お蔭で調査初期の頃、頼金と長智と宗芳がコンガラガッタ( ̄ー ̄A 汗フキフキ)
推定で70にはなってるはずなんで、てっきり程なく ( ̄人 ̄)☆彡~★☆・・・と思って記事にしてなかったんだけど、監修様から「現当主・頼房の代の時も現役奉行だった」と聞いてビックリ^^;(何歳まで生きてたんだ?)
深水宗芳が独断専行で藤千代クン(頼房の弟)を連れ出し、秀吉に御家存続交渉が出来たのはダディ頼金の後押しもあったからだろう。
ジュニア宗芳が葦北代官になったことで、相良家臣の深水一族を見る目は胸中穏やかではなかったはずだ。
そのジュニア宗芳が亡くなり、後継の奉行として深水頼蔵と犬童頼兄が入閣。
ここに犬童休矣・頼兄のNEW親子奉行が誕生。(* ̄・ ̄*)Vブイ
奉行衆の主導権は深水一族から、犬童家へバトンタッチすることになる。
ロン様作成:相良家紋ロゴ
休矣は死後・殉死者が出るほど人品骨柄優れた素晴らしい武将で、その実力は島津家も認めるところです。
ですから休矣には相良家を牛耳ろうとか、奉行衆の主導権を握ろうなどどという「俗念」は微塵もありません。
ですが世間・・・・犬童家を快く思わないものは「そう」感じます。
なぜ「そう」感じるかと言うと、休矣の嫡男・頼兄が原因でしょう。
もちろん頼兄にも、そのような邪な考えはありません。己の職務を力一杯果たしているだけなのです。
問題は「その力一杯」加減。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
優秀な頼兄は、ガンガン仕事を片付けて、テキパキ物事を進めてしまう。
そのため新参・若輩でありながら「出過ぎ」てしまうんです。
人々は「何となく面白く無い」「何かモヤモヤなもの」があっても、功労者である休矣の手前、言葉に出すことはしません。
知らず知らずのうちに頼兄は孤立してしまう。
ちょっと後の話になりますが、息子の人間関係を心配し休矣が訓戒します(緑文字スルー可)。
今度〔相良〕頼房公は天下 (豊臣秀吉)のご朱印状を頂き、異国退治のためご渡海について、〔相良〕左馬介(頼蔵)殿のご相談相手として、若輩のそなたを任命されたうえは、
できるかぎり念入りに内外のことに隔て無く相談いたし、士卒恨みがないように武剛を抽んで、戦功が最要(最も肝心なこと)であるべきことはもちろんである。
先ごろより語り聞かせようと思ったけれども、其の方が若輩の故に語らなかった。
〔しかし〕この度朝鮮国に出立について、かどでに大体のことを語り聞かせよう。
よく聞きなさい。
先年宮内大輔〔相良〕義滋公御在世の御時、宇土(名和氏)と度々戦い、二度まで当家(相良家)が破れた。
その節〔相良〕義滋公が仰せ出されたのは、球磨・八代・芦北三郡の諸侍のうちに鑓柱(槍働きに秀でた人物)と思われる者を吟味いたし、一人ずつ三郡にて三人選出し、八代へ遣わすようにと仰せられた。
よって三郡の諸侍で吟味して、球磨より岩崎藤左衛門、八代からは蓑田三浦介、芦北からは竹下播磨の以上三人を撰出申し上げたところ、
まず蓑田三浦介を御前に召し出されて仰せられたことは、八代には鑓数は全部で何本あるかとお尋ねなされたので、十二本ある旨を申し上げた。
八代一郡数百人の侍中に十二本は劣の事(少ない)と、ご機嫌以ての外であった(悪かった)。
その後岩崎藤左衛門を召して、球磨には〔鑓は〕如何ほどあるかと仰せられたところ、二十四本ある旨を申し上げられた。
次に竹下播磨を召して、芦北には如何ほどあるかと仰せられたところ、七浦には一本しかない旨を申し上げた。
これは右の鑓柱と申す一人宛残し置いての數であり、しからば球磨二十五本、八代に十三本、芦北に二本である。
重ねて義滋公が仰せられるには、三郡の諸侍中にも腕の毛をさする鑓は多くはないものであろう。
それならば各方、宇土の合戦評定は三人で備え(防備)の次第(対策)を談合(相談)するようにと仰せつけられ、上意のように談合して〔防備の対策を〕申し上げた。
そこでそのように〔防備の対策を実行するように〕仰せ出されて、宇土衆(名和勢)は崩れて(破れて)、数多当家(相良家)に討ち取られて、〔相良義滋公〕は大勝利を得られた。
これは右三人の手柄である。合戦は鑓柱たる者の分別が専要(肝要)である。
私(犬童休矣)は、義陽公が未だ万満頼房と申しておられたご幼少の時、ご当地(球磨)へ召し寄せられ、〔名を〕犬童美作に改め、その内他国での粉骨比類無かった。
ただし、永禄二己未年(一五五九)獺野原での合戦の時は、私三十八歳の時であった。
横瀬大王に陣取っていたところ、
多良木勢が崩れたように聞こえたので急ぎ駆けつけ、牛頭大王坂に向かったとき、
私が命令したところ、東能登が過言(無礼な物言い)をしたので、すでに口論になったけれども、
脇から止める人があったので、双方理屈にしたがって互いに憤りを押さえ、その競いにのって両人先を争って〔敵陣に〕押しかけ、敵の首を取って高名をあげた。
このように張り合いによって勝利を得(ることもあれば?)、遅れをとることも必然である。
私は当年七十一歳である。物語に入らないことではあるが、今後の心得のため申し置く。
休矣パパ・・・説教長いっす∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ここで問題なのは深水頼蔵が、頼兄の上司だってことです。
休矣パパは16代義滋の逸話や、自らの獺野原(うそのばる)の戦いの経験を話し(頑張って読んだぉ)、
「(深水頼蔵と)念入りに内外のことに隔て無く相談」することを、微に入り細に入り伝えようとしたのですが、頼兄は訓戒を守れなかった。
頼兄の仕事が手早すぎて、上司であるはずの愚鈍・頼蔵は、置いてけぼり状態だったようです。
そうなると深水頼蔵も面白いはずがない。
帰り新参の犬童家と違い、深水一族は奉行職を累代務める譜代家臣の代表格なんです。
深水一族と犬童頼兄の対立の深まりは、不味いことに【朝鮮の役】の真っ最中で、
しかも対立が外部に漏れ政治問題化するのだが それは・またの話 by^-^sio