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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【佐賀藩家老・深堀氏、弐】西肥前強化期間・リサーチ5武家目

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リサーチを続けていたら西肥前の史料が少ない理由が見えてきました。
北肥戦誌に記述が少ないもの無理ないです。元から無ければ編纂のしようが無い。

領内の神社仏閣を破壊(文書類もアボン)した某キリシタン大名家や、
意図的に80年分の文書を全て燃やした某家などの影響もあったでしょう。
本貫地から動いた事が無いにも関わらず、深堀氏の動向が六十余年不明になります(_´Д`)アイーン

年代で言うと1433年(室町中期)~戦国初期の明応年間初めくらいまでです。
キナ臭くなってくる面白い時期なのに・・・il||li _| ̄|○ il||l
そして再び記録に出るのが、深堀貴時の代です。

前段階がスコーーンとないので推測なんですが、深堀貴時は有馬氏の被官になったようです。
貴時の「貴」は、有馬貴純からの偏諱と思われます。

1494年(明応3)深堀貴時は、有馬貴純から藤津郡白石長島荘の名代職を命じられます

藤津郡白石長島荘の場所が特定できなかったです。
武雄が長島荘と呼ばれてたから、そのあたりかも?
となると、深堀の本貫地から少し離れてるんだよな~ヽ(。_゜)ノ ワカラン

それはさておき、戦国深堀氏が領内での支配権を固める上で、有馬氏から役目を預かった事実は、領内豪族たちへのアピールとして、大いに役立ったと思います。
そういう意味で、深堀6000石の土台を作ったのは、この深堀貴時でしょう。

では有馬氏との主君~被官関係が良好だったのか?と言うと違ったみたいでつ( ̄ko ̄)
深堀氏は有馬と距離を置き始め、戦国後期は完全に敵対関係でした。
その理由も推測なんですが、おそらく大村氏が台頭したせいだと思います。

大村氏は有馬家から嫁を迎え、次には養子(純忠)を迎え、有馬=大村に近い状態でした。
(後年は有馬氏も深堀が大嫌いなキリシタンになってます)
深堀氏は大村氏に対抗する為に、西郷氏と接近します。

イメージ 1

ネタバレ禁止、深堀系図~(*´pq`)プププ

523年(大永3)貴時の孫・善時は、西郷尚善の「善」の偏諱を受けて元服しました

この頃は中国のドン・大内氏が全盛期。
深堀善時は、大内義隆に太刀・馬・銭を贈り、義隆から太刀を答礼に貰ったそうです^^b
善時には男子がおらず真法姫一人。
そこで姫のまた従兄弟にあたる直時と娶せ、婿養子として直時に家督を継がせました。

ところが直時は舅・善時が死ぬと、有馬サイド寄りの態度をとり、深堀氏の対外政策に逆らった。
その為に一族達が、o( ̄Д ̄θ★ケリッ! っと、当主である直時を深堀家から追放しちゃったんです。
追放された直時子孫が、某家に仕えた~~~
って何処かで見かけたんですが、某家を控え損ねた上にサイトも見失った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ヤッチマッタ
とにかく、この婿養子追放で深堀氏嫡流の血統は絶えた事になるでしょう。

深堀一族は、西郷純久の子・純賢を当主に迎えました。
この深堀純賢が、一番難しい時期の舵とり&政治判断を誤らず、本貫地を守り抜く事に成功するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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