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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)後篇~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

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1530年(享禄3)有馬晴純の武雄攻略が始まる

有馬晴純は塚崎城を攻め住吉城に迫った。
史料では黒髪城ってなってるみたいなんですが、住吉城(黒髪山の麓)の事です^-^

純明は、勝利を黒髪山に祈願(-人-)☆彡
三間坂(山内町大字三間坂)の白水原に陣取っていた有馬軍を奇襲して勝利した。
このとき、戦勝を祝って足軽達が踊ったのが今も続く武雄の郷土芸能「荒踊り」だそうです^^

その後、純明と有馬晴純は和睦し、純明は有馬晴純の妹と結婚し、両者は義兄弟の間となった。
武雄の後藤が有馬と同盟関係になったことで、有馬勢の軍行動が頭一つ抜け出た状態へと飛躍します。

1530年・・・田手畷の戦いで活躍した龍造寺家兼勢が、その武勇を肥前国に轟かせた年でした。
ここから、西と東の肥前戦国史が大きく交差し始める。

天文4年(1535年)、純明は有馬晴純を助け龍造寺家兼と藤津郡で戦い勝利する

はぅっΣ(´Д`;)
これ、北肥戦誌に記載ない西肥前サイドのデータだ!
多分、でまかせじゃないと思う・・・龍造寺って剛忠(家兼)の代では藤津郡での戦で勝った事がないんです。
この頃の龍造寺は、アゥエーで単独で勝てるほどの力は、残念ながら未だありません( ̄ω ̄A;アセアセ
1540年(天文9)千葉喜胤が杵島郡に進出してきたため、純明は有馬軍に加わって千葉軍に勝利する(byウィキペディア)
北肥戦誌記述:有馬義貞が小城の千葉氏を攻め、杵島郡以西を奪った。
北肥戦誌は千葉氏としか記載してないので、千葉の西か東か判断しかねてました。
が、千葉喜胤ならば東千葉氏の方です。
いずれにせよ有馬氏は、六角川流域までエリアを広げました。

1542年(天文11)渋江公勢の三男・公親(後藤純明の実弟)が長島庄の旧領を回復すべく、岸岳城・波多隠岐守と平戸城・松浦肥前守と共に攻め入る

後藤純明は防戦するも失敗し、住吉城に退却する

渋江公親は長島庄を回復し日皷岳城に復活(=^・ω・^=)v ブイ

前回書洩らしたが、公親クンのママンは隠岐の波多氏出身で、公親クンは波多氏の保護下に入ってました。
パパ公勢が毒殺された時に13歳だった公親クンは、数え29歳の青年に成長してます。

ちなみに後藤純明は実父が毒殺された時に剃髪し月湖浄圓と名乗り、冥福を祈ってました。
それと純明の頃から後藤氏は本城を塚崎から住吉城に替えてたっぽい?みたい?です。
住吉~塚崎~って行ったり来たりしてるんで、どっちが本城なんだか区別が~~(_´Д`)アイーン

その僅か3ヵ月後、純明は日鼓岳城を攻略し、公親をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

ピンチが去った後藤純明は、居館を住吉城から塚崎城へ戻したそうで、やっぱメインは本貫地・塚崎城か?(@@)
渋江公親は龍造寺家兼を頼って佐嘉へ。
何時の間にかこさえた公親の息子・公師と公重は、肥後へとそれぞれ亡命しました。

1544年~1545年にかけて、少弐家臣・馬場頼周の龍造寺抹殺計画が始動!

有馬と縁戚・同盟関係だった後藤純明も、この陰謀に協力してたそうです。
純明が協力に応じたのは、有馬との同盟関係だけでなく、旧主で実弟の渋江公親が龍造寺を頼って亡命してたのが大きな理由だと思います。

さて養父で実祖父の後藤職明も男子に恵まれなかったのですが、どういう訳か純明も子宝に恵まれなかった。
そこで有馬の縁戚で準一門ある大村氏から養子を迎えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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